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民明書房的野球用語解説

1 :神様仏様名無し様:04/05/16 01:11 ID:lputuPHz
野丘(やきゅう)

古代中国では当時、戦が激しく兵士の士気が下がっていた。
それに困った時の皇帝は気休めにと石を投げてそれを木の棒で打つ。という娯楽を編み出した。
兵士達にも好評であり、戦の合間に楽しんだ。そして瞬く間に市民にも広まり、野原でも丘でも楽しめることから、
野丘と名づけられ中国の娯楽として定着した。
しかし、野丘に夢中になりすぎて勤労意欲が無くなり、経済に影響する事を危惧した皇帝は野丘を禁止した。
野丘は日本にも広まり、現在の野球の基礎となった。
皮肉にも野球は今や世界的スポーツになっているが、中国で禁止されていなければ、1,2位を争うほどに盛んになっていただろう。

 民明書房刊「世界に広まった娯楽〜スポーツ編、野丘」より

2 :神様仏様名無し様:04/05/16 01:14 ID:HXLeArLJ
もっこりもこもこ

3 :神様仏様名無し様:04/05/16 13:35 ID:3lkdEC1F
現在中国では「棒球」と呼ばれている


4 :神様仏様名無し様:04/05/16 14:49 ID:3eJrvrHX
麗我守(れがーす)

清朝末期、纏足と共に貴族の間で流行した装飾具の一つ。
主に脛当てである。最初はただの布を巻いたような物が多かったのだが、
やがて家の格により、家紋や文字、装飾を施したようなものが多くなった。
中でも中国東北部にある拠陣軍の黒い高貴な麗我守は、身にまとうだけで、一目置かれる
存在となった。
それが日本にも伝わり、野球用のレガ−スに形を変えて活躍している事はいうまでも無い

民明書房刊 「スポーツ用品その歴史」より抜粋


5 :神様仏様名無し様:04/05/16 18:30 ID:3eJrvrHX
覇州留(はっする)

古代中国、清王朝時代。当時の皇帝は乱れていた国政を1つにまとめ上げようと政策を打ち立てた。
もちろん広い国土の清であったのでまとめる事は困難を極めた。そこで当時の国防長であった
御賀倭(オ・ガワ)が仕切り、州全体を1つに留め、世界を制するとの意味から覇州留と名づけられた。
他国にも覇州留を広めようとした御賀倭は、両手をグーの形にして腰に当て、「覇州留!覇州留!」と叫び
PRした。そして見事に成功し、1つになり、他国にも真似をするところも出てきた。
我が日本にも広まり、挙仁藩の長でもある基世胎(きよはら)も真似をするまでに浸透した。

民明書房刊『中国の政策〜覇州留』より


6 :神様仏様名無し様:04/05/17 13:09 ID:UsWff3ZA
こんなスレがあるとは。せっかくなので燃料投下。
【向かう所】インチキ外人グーリン投手3【手品師】 の No.206 から転載。

> 具麟我流怒(ぐりんわるど)
>
> かつて古代中国には四神なるものが存在し、人々は世の平和を願わんと崇め敬いつづけた。
> 紀元前4002年頃、中国南西部の村大栄伊は突如出没した盗賊団によって大打撃を被る。
> そこに世を正さんとする四神が一人、麒麟が使わせた猛将が具麟である。
> 並み居る盗賊団をなぎ倒す彼の戦い振りは何とも華麗なもので、剣、槍、弓は具麟の
> 体を貫くことなくことごとくかわされたという。また、如砲法(にょほうほう)と呼ばれる
> 非常に薄い刀剣を使った闘法は華麗にして残酷で、具麟は表情を変える
> ことなく敵の首を刈り続けた。逃げ延びた盗賊達は「具麟の布侮ることなかれ。
> かの剣には具麟のげに恐ろしき怒りがこめり」と言い、これを具麟我流怒と呼び恐れたという。
>
> 現在福岡ダイエーホークスのグーリン投手がその末裔であるということは意外に知られていなが、
> 彼の幻影投法のルーツが具麟我流怒にあるのは明白である。
>
>
> 民明書房刊「中国奇術外伝〜常識の道を外れよ〜」より


7 :神様仏様名無し様:04/05/17 14:49 ID:34utbQ6a
伐賭(バット)

刀が使われる以前の古来中国で使っていた武器。
主に木で作られている。
戦においては命を賭け、討伐するとの意味からこの名が付いたと言われている。

 民明書房刊『命を賭けた兵士の魂』より

8 :神様仏様名無し様:04/05/17 17:39 ID:lePHN/Y6
これ、俺がプ板にたてたパクリじゃん

別にいいけど

9 :神様仏様名無し様:04/05/17 17:50 ID:+9h2yPCs
>>8
お前が言うかw

10 :神様仏様名無し様:04/05/17 21:31 ID:3Y7KzPEh
守苦射頭(スクイズ)

中国の諺
戦において戦況が苦しく負けられない緊迫の場面で、自軍を守る為に頭を使って、
意表をつき細かい攻撃を仕掛けた事から、「こつこつやれば成果が出る」の意

 民明書房刊「中国の諺大辞典」より抜粋

11 :神様仏様名無し様:04/05/17 21:45 ID:3Y7KzPEh
汚師堕志(おしだし)

中国の諺
自分の師匠をバカにすることは、自分自身をバカにする事と同じ行為であることから
「墓穴を掘る」の意。同意語に師糾(しきゅう)、暴苦(ボーク)がある。

  民明書房刊「中国の諺大辞典」より抜粋

12 :神様仏様名無し様:04/05/17 22:18 ID:3Y7KzPEh
展乱寺逢(てんらんじあい)

古代中国では、兵士達がいかに武術の訓練をしているかを皇帝が直に見る展乱寺逢
という事が行われていた。各地方の腕自慢が神聖なる寺院に集まり、披露した。
特に有名なものが、光烙園(こうらくえん)で行われた展乱寺逢である。
中国最大の軍隊、拠陣軍の大将、那賀史摩(ながしま)は皇帝が見ているという大舞台の中で、
作余納裸保無濫(さよならホムラン)という心を裸にして無の状態する、大技を披露した。
これには皇帝も驚きのあまり、立ち上がって拍手し、最大級の賛辞を送った。
那賀史摩と対戦したライバル武羅谷磨(むらやま)はショックが大きかったのか、「あれは反則だ!!」
とうそぶくことしかできなかったという。
これにより那賀史摩は「身守多亜(みすたあ)」(アジア最大の国、中国の多くの人を守るの意)の称号を
授かり、拠陣軍に那賀史摩あり。と中国全土に知らしめた。

  民明書房刊「中国、拠陣軍伝説の那賀史摩」より


13 :神様仏様名無し様:04/05/17 22:19 ID:AO/emoUJ
みんなよく思いつくねえ。

14 :神様仏様名無し様:04/05/18 02:13 ID:8ukZUJjL
多琉美襲(だるびしゅう)

唐の時代、首都である長安は国際都市であり、東は日本、西はヨーロッパまで
さまざまな国の人間が留学や商売に訪れ、絢爛な文化を誇っていた。
当時、ササン朝ペルシャの皇太子が政変のため唐に亡命していたが、その護衛として
共に入国したのが法沙(ほうさ)、ペルシャ名ファルサである。
法沙は精強で名高いペルシャ軍でも名うての弓使いで、唐の都でも右に出る者なしと
される猛者であったが、唐皇帝の命を受け彼の身辺を世話していた女性を見初め、正式に
結婚し、息子の法立(ペルシャ名ファリード)を設けた。彼はのちに「有」なる字をもつ。

法立は弓術に名高い父の影響からか、投石術の修行を熱心に積み、十代半ばにして
大唐の精鋭の弓術にも比肩しうる投石術を身につけた。その石は矢よりも速く、
その正確さはひと投げで雁金をまとめて撃ち落とすほどだったという。
彼はペルシャ人のハーフながら正式に軍に入ることを許可され、北方騎馬民族の襲撃では
進んで先陣を切り、その剛猛かつ華麗な投石術は「あまた輝く宝石のごとき美しき襲撃」と
言う意味の「多琉美襲」と呼ばれ、長く唐を守ることとなった。

ペルシャは現在のイランであるが、現在日本の高校野球で活躍している野球選手との
関連は、定かではない。

(民明書房刊『大唐を彩った外国人〜長安英雄列伝』より)


15 :神様仏様名無し様:04/05/18 14:33 ID:dexKpN82
保主(ほしゅ)
漢時代から呼ばれた城主の総称。
城の平和を保つ主とのことからこの名がつけられた。
保主になる為には、当たり前ではあるが戦に勝てるような頭脳、もちろん部下をまとめるリーダーシップが
必要とされた。中でも漢、中心部に存在した耶句瑠杜城(やくるとじょう)の主、布流汰(ふるた)は
繊細で緻密に戦略を練り、殷時代の伝説の名将である乃矛讃(のむさん)の再来とも言われた。
その戦略は亜射出威戦略(あいでい)と呼ばれ。民衆に支持されて、長く城を見守った。

現在、日本の野球では捕手と呼ぶポジションがあるが、保主のなごりから来ているものである。

 (民明書房刊『勝つための頭脳〜保主の戦略』より)



16 :神様仏様名無し様:04/05/18 19:37 ID:ikTzHAwb
死錠際興蛇餞【しじょうさいきょうだせん】

古代中国における処刑法の一つ。 罪人の両腕に錠を施し、罪人の体に蛇が好む匂い
を擦り付け蛇を放して処刑する。罪人が恐怖に引きつる姿を見ることに悦を感じた
当時の大臣渠仁(きょじん)はこれを大衆に祭りの余興として披露し好評を博した。
しかし一月余りでに隣国の攻めに合いこの処刑法と共にこの国は滅びた。

ちなみに日本職業野球の宣伝文句に史上最強打線と名づけるのは上記に由来する。

民明書房刊【古代中国-祭祀と退廃】より


17 :神様仏様名無し様:04/05/20 01:53 ID:yRR7Xvpf
簾馳威流【すちいる】

漢時代の中国武術の流派の一つ。強靭な足に加え卓越した観察力、判断力で他流派
を圧倒した。開祖譜玖摸徒(ふくもと)の多大な努力により最盛期には門人が五万
人を超えた時もあった。しかし勢力が強大になり過ぎたため各国の保守が警戒令を
発し、特に乃矛讃(のむさん)の命により開発された駆射躯徒烏砲(くいくとうほ
う)という当時としては最強の投石器により半壊滅状態に陥り、勢力を縮小させら
れた。

昨年日本職業野球において61盗塁という好成績を残した阪神の赤星選手が簾馳威流
の伝承者ではないかと言われている。

民明書房刊「漢代の疾風」より

18 :神様仏様名無し様:04/05/22 18:06 ID:1BcRRGvq
あげ

19 :神様仏様名無し様:04/05/22 18:45 ID:l81Vc/BS
オレの友達は大学生になってようやく民明書房が
実在していないことを知った。

20 :神様仏様名無し様:04/05/24 15:21 ID:bzoMLesF
>>5
さすがに民明書房といえど、古代中国清王朝はちょっと。
17世紀以降だぜ。

21 :神様仏様名無し様:04/05/24 21:58 ID:B7UOUhM7
>>20
清を名乗った国なんてホンタイジのだけじゃなくていくつもあるよ。

22 :神様仏様名無し様:04/05/29 20:02 ID:V+fZfamV
炉模火治(ろぼひっち)

征服王朝、清を興した初代皇帝 愛新覚羅 の武勇は多くの人々の知るところであるが
中国統一にあたり幾多の敵に狙われる身となった皇帝の護衛にその生涯を費やした
清朝統一の陰の功労者である三将、「脊我(せが)」 「円汰阿(えんた)」 「富羅鋳逗(ふらいず)」の名と功績はあまり知られていない。
当時、戦の主戦力であった投石機による攻撃を伐賭(バット・本書>>7項参照)を遣い敵陣へ打ち返すという秘技で皇帝の身を幾度となく救った。
彼ら三将の秘技を解説すると伐賭を両の手に持ち、敵に半身で構え、頭を軸とし腰を回転させ腕を振り伐賭に円運動を加え飛んでくる石を敵陣の彼方へを打ち返すというものであった。この秘技は日々の修練と不断の努力が必要であった為、
三将は各々が戦場でも容易に持ち運べる小型投石機、「炉模火治(ろぼひっち)」を持参し敵の攻撃に備え「得撃治(とくうち)」と呼ばれる日々の修練に明け暮れたという。
余談ではあるが、80年代日本の子供達の間で流行した玩具、小型ピッチンクマシーン「ロボピッチ」の名の由来が三将が戦場に持参した「炉模火治(ろぼひっち)」であることはいうまでもない。

民明書房刊 『児童玩具の名にみる古代中国の歴史』 より


23 :22:04/05/29 20:59 ID:V+fZfamV
誤 ロボピッチ
正 ロボピッチャ
スマソ

24 :神様仏様名無し様:04/05/31 23:07 ID:LiaXTLh9
眼邪利猪愚(めじゃりいぐ)

中国宋代末期、強力な軍事力で進入するモンゴル帝国の兵を宋の兵達が
「邪心に満ちた眼で利に猪のごとく突き進む愚かもの」の意味で
「眼邪利猪愚」と軽蔑し、また恐れた。
 モンゴル帝国は中国はおろか東ヨーロッパまで席捲した。
圧倒的なパワーとスピード、さらに国籍問わず実力主義が
徹底されたモンゴルの脅威は時のイギリス皇帝さえ
「メィジャリーグ!」と怯えさせたほどだ。

 言うまでもなく、イギリス本国から独立したアメリカの
「メジャーリーグ」が国技ベースボールの最高峰の名称に
使われたのはこの故事にちなんでいる。

民明書房刊『アメリカさんに物申す!・・・野球史編』


25 :神様仏様名無し様:04/06/01 09:48 ID:dai2xLMX
>>24
ちょっと待て、東欧までなのにイギリスかよ
しかも「皇帝」は駄目だろ

26 :神様仏様名無し様:04/06/08 05:13 ID:oRXgG66o
age

27 :神様仏様名無し様:04/06/16 16:15 ID:HlXe3ffs
age

28 :神様仏様名無し様:04/07/06 22:43 ID:1xq3xvsA
さらにage

29 :コピペ:04/07/08 15:49 ID:pR2ekNH6
蛇矛牌屋(じゃむはいや)

 古代中国では現代の中国人以上に麻雀が盛んであった。
麻雀牌の中でも象牙で作られたものは珍重され時の権力者などに非常に高値で取引された。
 
 これに目をつけた、遼陽の人で拿屁津根(なへつね)という者があった。
彼は象牙の変わりに蛇の牙を用いて作った麻雀牌「蛇矛牌(じゃむはい)を作り、
それを偽って販売することにより莫大な利益を得て、嫁李(よめり)の地に豪邸を築いた。
 しかし、ある日拿屁津根の下人阿狗鱈右(あくたらう)という者のしくじりにより
拿屁津根の牌が蛇の牙でできていることが知られてしまい、彼に騙されていたことを
知った土地の太守により嫁李の館は攻撃され、拿屁津根は捕らえられ
裸にされ全身の毛を剃られて市中晒し者の刑に処されることとなった。
これを見た町人たちは「嫁李の蛇矛牌屋の最期まことに哀れなり」と哂ったという。
以来中国ではいかさまがばれて晒し者にされることを「蛇矛牌屋」と呼ぶようになったと言われる。

 現代日本のプロ野球における審判団の誤審、不正の疑惑を「ジャンパイア」と呼ぶのは
全国ネットでのTV放送という物でさらし者にされている彼らへの蔑みと哀れみがこめられているのである。

民明書房刊 「週間ベースボール」より


30 :神様仏様名無し様:04/07/08 18:02 ID:fe12dyN4
>>1>>4>>5>>6>>7>>8>>10>>11>>12見えない。


31 :神様仏様名無し様:04/08/09 13:59 ID:F2KQCtms


32 :神様仏様名無し様:04/08/10 19:47 ID:DgNnoMBW
『魔球・智円寺阿津府(ちえんじ・あつぷ)』

 明朝末期、中國東北部では智円寺と神拳寺の二つの尼寺が存在し、
 女性達はその覇権を巡って曽婦斗墓宇瑠(そふと・ぼうる)なる競技で
 日々抗争を繰り広げていた。
 中でも智円寺の抑えの切り札・阿津府(あつぷ)の投げる球は
 目の前でボールが変化するため相手打者から「魔球」と恐れられ、
 ついには彼女の左腕一つで智円寺を勝利に導いたほどであった。
 またこの智円寺は大変な美人が集まる尼寺としても有名であり、
 かつ智円寺の語感が英語の ”チェンジ” に似ていることから
 現代社会において初対面の女性への挨拶は 「お綺麗ですね」 と同じ意味として
 「チェンジ!」 が好んで使われるようになったのである。


(民明書房刊 「中國球技界 その知られざる世界」 より )


33 :神様仏様名無し様:04/08/10 22:52 ID:AKdDn0Di
「案出老(あんだすろう)」
時代短き隋王朝、煬帝がまだ存命中であった頃、黄河の北の部族であった
鬼世陣(きよじん)と反期雄(はんきゆう)が屁難斗(ぺなんと)と呼ばれる旗の所有権に
ついて争っていた。鬼世陣形勢有利の頃、反期雄では鬼世陣の勢いを止める為の策を思案していた。
そんな折、反期雄の老隊長であった山丘(やまきゆう)が「屁難斗を奪う為の策」として
石を下から投げる作戦を発案、鬼世陣を大いに苦しめた。
結果として山丘の作戦は鬼世陣の王(おう)に見破られてしまい敗れてしまうものの、山丘の作戦に
敵味方賞賛の声が挙がり、山丘の作戦を発案したその頭脳を称え、「案出労(あんだすろう)」の
称号を与えられた。

山丘の作戦を長らく理解できる者はいなかったものの、現在日本において千葉呂津手(ちばろつて)の
寸助(すんすけ)が体得、その作戦は多くの球団を苦しませている。
なお先日伝説の老隊長山丘と渡辺俊介は「照例比亜左日(てれびあさひ)」の仲介で歴史的邂逅を果たした。

(民明書房刊 「伝説の老隊長 山丘」 より )

34 :神様仏様名無し様:04/08/10 22:54 ID:AKdDn0Di
12行目訂正
渡辺俊介→寸助

35 :神様仏様名無し様:04/08/10 23:00 ID:QPqcF/hi
『苦労座(くろうざ)』

唐の皇帝・玄宗は毎夜酒宴を催していた。
のちに宰相となった楊国忠は多くの芸人を抱えていたといわれるが、
その宴の席でどの順番で芸人を出すかということに頭を悩ませていた。
ある時、宴の最後を締める芸人の芸が玄宗の勘気に触れ、国忠も疎んじられた。
蟄居していた国忠はその間に全ての芸人の芸を見、姉とともに協議したうえで次のように分類した。
説途圧波(せつとあつぱ)は、宴の中折れを防ぐため、途を説き、波のように場を圧する勢いのある芸を持つ芸人群。
素訥波(すとつぱ)は、素朴で訥々と、しかし同様に波のような勢いのある芸を持つ芸人群。
そして、最も場を盛り上げ、しかし最後にふさわしく締めなければならない芸人群を苦労座(くろうざ)と名付け、一座として特に重用した。
その後、苦労座の芸人のうち二、三人は玄宗の怒りに触れ、斬られたといわれているが、
玄宗には「宴を任せられるのは国忠をほかにおいてない」と言わせしめた国忠は順調に権力を得ていった。

なお、野球では投手の役割に応じた名前があるが、上記に由来しているのはいうまでもない。
(民明書房刊 『唐語撰』 より )

36 :神様仏様名無し様:04/08/11 14:38 ID:tUcgW1X6
「優撃首(ゆうげきしゆ)」

古代中国春秋戦国時代、戦において特に「敵の首を攻撃するのに優れた武人」
のことを「優撃首(ゆうげきしゆ)」と呼んだ。その中でも鬼世陣(きよじん)の
比呂尾科(ひろおか)や反心(はんしん)の与死堕(よしだ)は特に優れた武人だった。

なお現代野球では優れた守備の選手に対して「遊撃手」のポジションを与える
ケースが多いが、その「遊撃手」が古代中国の「優撃首」に由来している事は
言うまでもない。

民明書房刊「戦の華 優撃首」より

37 :神様仏様名無し様:04/08/12 21:59 ID:x1WnwtJN
『葬乱(ほうむらん)』

後漢末、いわゆる三国鼎立にいたる時代の人物については、陳寿『三国志』に詳しい。
魏書呂布伝という評伝は、呂布の武勇伝を中心とした波乱に富んだ生涯を描いている。
彼の故郷、五原では、そこに書かれていない、彼の一騎討ち技術が今でも伝承されている。
彼は一騎討ちの際に、自らの戟で相手の首を打って遠くへ飛ばす、葬乱(ほうむらん)という技術を用いることにこだわりを持っていたといわれている。
五原には様々な民族がおり、それぞれの民族の技術の融合が葬乱を生んだのかもしれない。
有名なのには、西域の閥区素栗院(ばつくすくりいん)で異民族同士の小競り合いがあったとき、呂布は仲裁のため、首謀者の婆子(ばあす)、過毛不(かけふ)、雄架蛇(おかだ)の三人に勝負を挑み、連続で葬乱した閥区素栗院三連発がある。
葬乱はある一定の距離を飛ばさなければならない、とのちに呂布は自戒したという。

なお、この技術がのちに野球でホームランといわれる語源だといわれている。
(民明書房刊 『写真でわかる!一騎討ち入門』より)

ところで、呂布伝が何書にあるかを調べていたら、こんなDQNのプロフィールを見つけた。
http://pr1.cgiboy.com/S/0135407

38 :神様仏様名無し様:04/08/12 22:04 ID:x1WnwtJN
乃矛讃(のむさん)
>>15 殷の名将
>>17 漢代の人
どっちも同じ変換でワラタ

39 :神様仏様名無し様:04/08/12 22:39 ID:x1WnwtJN
『翔徒子突府(しょうとすとっぷ)』

隋の煬帝が少府とならぶ役職として創設した。
しかし煬帝以降は史書に見られないため、詳細は不明だが、主に煬帝の身辺警護にあたっていたとされる説が有力なので、これを採用する。
翔ける徒、子などの字から推測されるとおり、小柄で俊敏な者が属しており、
反期雄(はんきゆう)出身の大刃氏(おおはし)、反心(はんしん)出身の久児(くじ)
など、異民族が特に有名である。
大刃氏は、武帝が王(おう)から攻撃を受けたとき、前もって卯柱館(うちゅうかん)に移動し、打ち取ったという。
大刃氏はのちに反期雄に戻り、山丘(やまきゆう、>>33参照)を援護したが1年後に追放された。異民族だった久児も煬帝を恐れ、のちに反心に帰順した。
この二者が翔徒子突府を離れたことで煬帝は残った異民族官人を多く虐殺したといわれている。

現代の野球では翔徒子突府よりも『優撃首(ゆうげきしゆ、>>36参照)』という言い方を多用する。
(民明書房刊 『隋の異民族待遇』より)

40 :神様仏様名無し様:04/08/14 02:03 ID:VmNy21XO
『月通(げっつう)』

月のものの有無は、女性にとって妊娠したか否かだけでなく、健康状態の目安でもある。
これは古代中国から知られていたことで、諸子百家は既にこの語をその意味で用いていた。
香阿府(かあぷ)の沙左丘(ささおか)は農家に属しており、越王勾践のもとで月通論を研究していたといわれる。
あるとき、愛妾西施に元気がなく、月通がないことを知った勾践は沙左丘にどうしたものか尋ねた。
すると、沙左丘は「勾践の好みが憂いを持った女性であるから眉を顰めており、元気がなさそうに見えるだけである」と答えた。
ところが実際に西施が倒れたため「月通があれば、2/3は健康に問題がないと言える。しかしそれがない場合は食事/運動/性交渉の3つをひとつずつ見直し、健康に注意せねばならない」
と提言した。そしてこの提言がもとで西施は無事元気を取り戻したといわれている。

現代の野球でゲッツーというのは、この沙左丘の台詞から来ているといわれている。
(民明書房刊 『写真でわかる!春秋時代のセックス入門』より)

41 :神様仏様名無し様:04/08/14 02:53 ID:VmNy21XO
『誤櫓(ごろ)』

漢の班超は西域で多くの国や民族と交戦し、そのなかで多くの兵器や戦術を目の当たりにした。
最も班超が手を焼いたのは、大月氏国の誤櫓(ごろ)という兵器だとされている。
語源は班超の「あれを櫓と誤って攻撃したところ…」という記述による。
これは、櫓上部から兵士が弓矢で攻撃してくる通常の櫓にさらなる攻撃手段の加わったものである。
攻略するために櫓に近寄ると、櫓の中央の高さにある扉が開き、中にある岩が落ちてきて、地面を転がってきて攻撃者を撃退するという。
班超はこの兵器により多くの兵士を失ったが、津児(つじ)や宮茂斗(みやもと)といった優秀な配下がこれを破壊することに成功し、ついに大月氏国を攻略することができた。
のちにこの2人は誤櫓さばきに達人と呼ばれることになった。

野球でのゴロという言われ方は、この誤櫓から繰り出される岩の転がる様が、球の転がる様子に似ているため、使われはじめたといわれている。
(民明書房刊 『珍兵器』より)

42 :神様仏様名無し様:04/08/14 07:58 ID:VmNy21XO
『阿礼和不阿右琉打(あれはふあうるだ)』

香阿府(かあぷ)出身の智将、于江?(うえさん)と反心(はんしん)の武羅谷磨(むらやま、>>12参照)の武器と言われている。

于江?は武羅谷磨の一時夫婦だったという史料もあるため、女性の可能性がある。
于江?は漢民族化が進んだ香阿府に嫌気が差し、範丘(はんきゅう)地方の反期雄(はんきゆう)族に紛れ込んでいたという。
のちに反期雄の族長仁師元(にしもと)に請われ、一軍を率いる。
仁師元が病に倒れてのちは、周りに押されるようにして反期雄を統率することになる。
ある時、隋王朝が薬留徒(やくると)と反期雄を仲介しようとした。
隋は使者斗美沙和(とみさわ)を反期雄に送ったが、薬留徒の大子儀(おおすぎ)の息がかかっており、于江?を葬乱(>>37)しようとした。
そこで于江?は阿礼和不阿右琉打(あれはふあうるだ)で斗美沙和を1か月19日間に渡り殴り続けたといわれている。
しかし斗美沙和は生き延び、負傷した于江?はその後歴史の表舞台に出て来ることはなかった。

現在のプロ野球で、ホームランかファウルか微妙な時に、「あれはファールだ」というのは、この武器に由来している。
(民明書房刊 『役に立たぬ武器』より)

43 :神様仏様名無し様:04/08/14 14:30 ID:VmNy21XO
『瑛要姫(えいようひ)』
五胡十六国時代、奈屁津禰(なへつね)は野丘海(やきゅうかい)のそばに巨秦(きょじん)を建国した。
奈屁津禰は酢毛(すもう)、野丘(やきゅう、>>1参照)といったスポーツを奨励し、巨万の富を得たといわれている。
ある時伴秦(はんしん)との戦いに敗れ、憤った奈屁津禰は自らの富で他国の優秀な将軍を集めはじめる。
香阿府(かあぷ)の恵当(えとう)や台栄(だいえい)の胡久墓(こくぼ)などがその代表である。
それに留まらず、若く見どころのある少年を得るために瑛要姫(えいようひ)を用いた。
瑛要姫とは、性欲に飢えた少年のそれを満たすために派遣された女性のことをさす。
この存在は、名台(めいだい)の威知馬(いちば)と瑛要姫との事の最中が親に見られたことで発覚した。
これは漢土全体から倫理的悪として糾弾され、奈屁津禰は自ら国を去った。
(民明書房刊 『健康と科学』より)


44 :33=36=44:04/08/14 17:30 ID:cWpVdN/P
『万破丹(まんはたん)』
劉備・曹操・孫権が覇権を争っていた三国時代、多くの兵が
傷つき、そして命を失った。
それを憂いた伝説の医者、華佗は「多くの尊い命を救う為に」
様々な植物を調合し、ある漢方をつくることに成功した。
この漢方はよろず(万)の葉を用いて作った薬(丹)なので
「万葉丹(まんはたん)」と名づけられた。この漢方の効き目は
絶大であったがあまりにも苦いため、時の権力者曹操は「予を
葬る気か」と烈火の如く怒り華佗は幽閉されてしまった。
万葉丹の効き目は海を隔てた倭国でも評判となり、その国で
最も勢いのあった邪馬台国が万葉丹を独占した。

現在ダイエーホークスに所属している大道選手の好物とされている
「マンハッタン」は味こそ別のものであるがルーツは紛れもなく
万葉丹であり、代々の万葉丹栽培者が苦味を抑えようと奮闘してできた
結晶である。
そしてマンハッタンが九州限定であるのは邪馬台国が独占していたからである。

(民明書房刊 『万葉丹に見る古代日中交流』より)


45 :こぴぺ:04/08/15 08:14 ID:ZGKxN63L
『衛酔姫 (えいようひ) 』

後漢末期、中國の都洛陽では、群雄の一人董卓が強力な軍隊、砲衛剣(ほうえいけん)を背景に
傀儡政権である虚密書無(こみっしょな)を擁立し、権力を掌握していた。
権力基盤である砲衛剣をより強力にするためには豊富な人材が必要であったため、
董卓は人材の確保には余念無なく、まだ所属する勢力が決まってない武将にたいし
さまざまな手段を利用して自勢力へ勧誘したのは、周知の事実であった。
それを当時の人々は衛酔姫(えいようひ)と呼んだ。
すなわち
衛 衛兵としての身分
酔 振舞われた膨大な量の酒
姫 城中には800人といわれた美女
の三つを主に用いたという。
このようして、権力をほしいままにした董卓も、その横暴がもととなり、
配下の王允と呂布の謀略により、無残な最期を遂げたという。

現代のプロ野球界の権力者、渡辺オーナーの解任についての理由となった、
新人選手獲得のために用いた資金が、栄養費と呼ばれるのもこの逸話が元になっていることは
いうまでもない。

( 民明書房刊 「古今東西権力闘争。栄枯盛衰ここにみたり」 より )

46 :こぴぺ:04/08/15 08:31 ID:ZGKxN63L
師馬(しま)

隋時代に活躍した馬(ま)は、幼少のころから球状の岩を投げることに関して才能を発揮し、
師馬(しま)として民衆の尊敬を集めた。
その実力を評価した華阿府(かあぷ)地方において役人として登用されるも、怪我を負ってしまい、

高い素質をくすぶらせていた。

後年になって華阿府に盗賊がはびこった際に、抜斗(ばっと)といわれる棍棒を手にとって立ち向か

い、秘められていた実力を存分に発揮する。
隋の国を護った師馬は、赤く燃え盛る炎のような活躍ぶりから羅漢に喩えられ、赤護隋羅(あかごず
いら)の称号を得ることになるのであった。
ちなみに、広島東洋カープに在籍する嶋重宣選手の愛称のがここから来ているのは、 あまりにも有
名な話である。

民明書房刊 『中国の復活者たち』より


47 :神様仏様名無し様:04/08/25 17:02 ID:vJKdogFv
捕手

48 :35=37=38=39=40=41=42=43:04/08/28 20:20 ID:Q4Yy7N7T
朱威出汁屋(しゅいだしや)

出汁は料理の味を左右する非常に重要な位置をしめる。
このことは古代中国でも広く知られており、漢代にはとくに出汁のみにこだわった出汁屋という店が乱立していた。
巴郡の朱威の店は有名で、世郡にも店を出したほどであった。
この二つは、巴の朱威出汁屋(はのしゅいだしや)、世の朱威出汁屋(せのしゅいだしや)として区別されていた。
この当時の出汁は既に鶏ガラが流通しており、最も評判のよかった鶏ガラ出汁の鶏を育てた者の名前はこの朱威出汁屋を通じて有名となった。
代表的なのは、巴の朱威出汁屋の白、世の朱威出汁屋の王、などといった呼ばれ方をしていたようである。

(民明書房刊 『古代料理の用語辞典』)

49 :神様仏様名無し様:04/08/30 23:44 ID:7pBwXYZb
保死油(ほしゅ)

50 :神様仏様名無し様:04/09/02 04:45 ID:cbx2XXCg
捕手

51 :神様仏様名無し様:04/09/08 15:49 ID:oj99L67u
首都来喜(しゅとらいき)

中国では国の中心的な都市を決める為に、たいそう苦労した事があった。
現在の首都は北京であるが、中華人民共和国の名称に決まった時には、まだ、首都は
決まっていなく、各地の人間が「俺の町を首都にしろ」と言って反乱がおきた。
暴力に訴える者もいれば、強盗などの盗みを繰り返す者も現れた。
しかし、北京の人間は、暴れずに血を流さずに北京を首都にしてもらえるような考えを起こした。
それは、労働を拒否する事によって国に損害を与える事だった。
もちろん税金が入らなくなり、国政を圧迫する事を危惧した皇帝は、首都を北京にすることを
決定した。そのとき北京はのものは「首都来期」(次の時代は北京が首都の意)
と言って、作戦の成功を祝った。

現在日本のプロ野球界では、ストライキ問題が世をにぎわせているが、「首都来期」が
語源なのは言うまでも無い。

(民明書房刊 『プロ野球の行方』より抜粋)


52 :51:04/09/08 19:42 ID:x8OqforH
訂正
首都来喜(しゅとらいき)→首都来期

53 :神様仏様名無し様:04/09/08 22:41 ID:hMMLYEbz
>>51
スンマセン、発想はいいと思うのですが、
中華人民共和国なのに皇帝が出てくるというのは勘弁してください。

54 :神様仏様名無し様:04/09/19 07:25:13 ID:agyjXUXB


55 :神様仏様名無し様:04/09/27 18:27:56 ID:eVpz2p5J
保守

56 :神様仏様名無し様:04/10/02 23:51:42 ID:GyhzPHT5


57 :神様仏様名無し様:04/10/03 09:04:30 ID:TibCRMih
おまえら、珍そう団のネーミングしてんじゃねーぞ?

58 :神様仏様名無し様:04/10/04 00:27:16 ID:9Iu2XAx6
『王死伏闘(おうしふと)』

 隋王朝のころ、翔徒子突府(>>39参照)の役人で虐進倶流(ぎゃくしんぐる)なる武術の使い手であった鬼世陣(きよじん)の梓雷士(しらいし)は、とある事情から、鬼世陣をさり、故郷の香阿府(かあぷ)に帰った。
 それから14年後、鬼世陣と香阿府の戦いが起こった。香阿府軍を率いる梓雷士は、葬乱(ほうむらん、<<37参照)王と呼ばれる名将、王(おう)を倒すため、軍師の華倭母杜(かわもと)らとともに、作戦を練った。
 そして、王がいつも右側から攻め込んでくるということから生まれた戦法が王死伏闘(おうしふと)である。この名は王を死に伏せる闘法、ということで名付けられた。
 王死伏闘とは、王が基本的に戦闘のときは、彼から見て右側に攻め込んでくることから、その右側に軍の大勢を移動させて、あまり前へ出ずに戦う戦法である。
 黄烙園(こうらくえん)の戦いにおいてはじめて使用され、王は前日4人の香阿府の兵を葬乱したのだが、この日は葬乱どころか一人の兵も倒せぬまま敗走した。
 結果、王死伏闘は瞬く間に中国全土に広まり、鬼世陣と戦うときは、どこの軍もこの戦法を採用した。
 それでも自らの戦い方を変えずに、それでも生涯中国最多の868人を葬乱したということは、王がいかに優れた武将であったかを物語っているだろう。
(民明書房刊『幻の兵法』より)


59 :神様仏様名無し様:04/10/09 10:55:04 ID:CpKOvqry


60 :神様仏様名無し様:04/10/09 22:47:10 ID:0qnsIU4i
これすーっげーおもしれー!!
みんな頭いいんだな!

61 :神様仏様名無し様:04/10/13 14:00:11 ID:WWmZHyIv


62 :神様仏様名無し様:04/10/14 06:13:08 ID:0njsUZOh
湾歩員止(ワンポイント)

明時代中国の兵法。
湾岸に兵士を配置し、敵の攻撃から守る部隊のこと。
決して戦の中心的存在ではないために地味なイメージであったが、
戸尾弥麻(とおやま)という武将は見事なまでに敵の攻撃を防御して、被害を
最小限までに食い止めた。
平民からも信頼され、戸尾弥麻がいれば桜吹雪が舞い上がるとまで言われた。

現在では戸尾弥麻に代わる有名な湾歩員止の存在が見当たらないために、
軍部は苦悩している。


(民明書房刊『遠山ー葛西ー遠山』より)


63 :神様仏様名無し様:04/10/14 23:19:03 ID:LqYYcdw0
翁拿亜(おうなあ)
古代中国では、王や皇帝を影ながら操る翁拿亜(おうなあ)と呼ばれる人たちが存在していた。その誰もが、好戦的な老人であった。
1番有名なのが、遽靭(きょじん)の奨李貴(しょうりき)である。
他に代表的なのとして、他に魯敏巣(ろびんす)の侘武螺高麗(たむらこま)、刀衛(とうえい)の欧寡和(おおかわ)、台舞(だいまい)の辣覇(らつぱ)、盛蕪(せいぶ)の筒壬(つつみ)らがいる。
長らく中国を影ながら牛耳った翁拿亜も、遽靭の奈屁都禰(なへつね)の横暴が元でその存在を知った地方の王たちが立ち上がり、彼はまもなく姿を消した。
これがもとで、翁拿亜は急速に勢力をを弱め、やがてその名は中国から消えていった。

なお、現代にはオーナーという役職があるが、その役名はこの翁拿亜に由来する。
(民明書房『渡辺と堤』より)

64 :神様仏様名無し様:04/10/27 06:22:58 ID:GC/jKcZO
捕手

65 :神様仏様名無し様:04/10/27 11:54:42 ID:x0p1naj+
オレ流

66 :神様仏様名無し様:04/10/28 00:09:37 ID:qDxICvhA
赤経流(あかへる)
 明の初期に、香阿府(かあぷ)地方において、貞琉蔚(じょうるうつ)が創始した武術。この流派のものは、赤い兜をかぶっていたという。
 しかし、琉蔚は、神藩(しんぱん)との対立から、『後継者を探しとくように』と言い残して行方不明となった。
それから、2代目として選ばれた湖馬(こば)が広め、弟子の善飛瑚(よしひこ)、鋼邇(こうじ)、絹嵩(きぬがさ)、姫侘部訃(きたへふ)らが活躍した。また、鋼邇が4代目である(3代目は『亜難(あなん)』というらしい)。
 しかし、5代目の壬夢羅(みむら)のころ、奈辺通禰(なへつね)によって、「虐刺冥拳(ぎゃくしめいけん)」なる拳法が広まり、さらに、「獲風影尖幻(えふえいせんげん)」なる魔術も出現した。
 壬夢羅は奈辺通禰の部下・御守他亜こと拿牙志真(ながしま)に戦いを挑んだが、
拿牙志真の最終奥義・鳴狗虎馬(めいくどらま)に敗れ、以降、赤経流の勢力は弱まっていくことになる...。

 赤ヘル軍団の名の誕生は、この話が元になっているものである。
(民明書房刊『赤経流500年史』より)

67 :神様仏様名無し様:04/10/28 02:05:37 ID:ZNl24AOp
>>57
民明書房でぐぐれ

68 :神様仏様名無し様:04/10/28 11:24:03 ID:EOjGvUGY
オレ流キボンヌ

69 :神様仏様名無し様:04/10/29 17:52:57 ID:g54DJDDW
捕手

70 :神様仏様名無し様:04/10/30 00:54:38 ID:tjWYF1M9
折竜(おれりゅう)

 むかしむかし、ある村で、日照りが50日間続いた。20日目、28日目、34日目、45日目は厳密には曇りの天気だったが、雨は降ることはなかった。
 そのとき、竜が現れ、このように言った。
 「俺はこの国に住む竜だ。天帝・猪頭聖武(いとうせいぶ)は今ここに雨は降らせてはならんとおっしゃるが、お前らを見殺しにもできん。今から、雨をこの地に降らせよう。だが、私もそれなりの罰を受け、無事では済まないだろう」
 そう言い残して、竜は消えた。
 その日の夕方、ついに雨が降り、村人は喜んだ。しかし、それもつかの間、竜が天へ昇っていった。
 翌日、村人は首を折られた変わり果てた竜の死体を見つけ、悲しんだ。しかし、村を救った竜をたたえ、首を折られて死んだことから「折竜(おれりゅう)」としてその村に祭られたという。

 現代、その伝承は忘れられたかに思われていたが、その地に生まれたある人が、プロ野球選手の落合博満氏にその竜の面影を見たことから、落合の方法論を「オレ流」と名づけ、その名を現代によみがえらせた。

(民明書房刊「今よみがえる!!幻の昔話」より)

71 :神様仏様名無し様:04/10/30 11:31:25 ID:1ZuddU8E
>>70
GJ!なんかいい話でつね

72 :神様仏様名無し様:04/10/30 15:34:59 ID:xoY4YO/y
織れ龍(おれりゅう)

中国は清の時代、戦火が激しかった時のこと。
民間人にも徴兵を命じられ命を賭けて戦争へ行かされた。徴兵された者の家族にとっては、不安ばかりで、 夜も眠れなかった。そこで無事を祈るお守りとして特攻服に龍の刺繍を縫った。
上に向かっていく龍は昇り龍といって縁起がよく、戦争に行く者の特攻服には必ずと言っていいほど龍が縫ってあった。
人は龍の刺繍が入ってる特攻服を「織れ龍」と呼び無事を祈った。
「織れ龍」の風習は他国の特攻服を見ても清だけであったことが当時の資料からも分かっている。
このことからも察知の通り、中国では独特の文化や風習で何千年もの歴史を作り上げていたことが容易にわかるだろう。

また、余談ではあるが、日本のプロ野球でセリーグ優勝チーム中日ドラゴンズの監督である落合博満氏の独特な采配のことを、
「オレ流」と呼ぶが、この名付け親の記者はよほどの中国通に違いない。

(民明書房刊『左に左の時代は終わった』より)


73 :神様仏様名無し様:04/10/30 16:53:14 ID:P1MGwVpl
代打キボン

74 :神様仏様名無し様:04/11/03 12:59:35 ID:jbpTMzZP
扇代(せんだい)

 昔、明のころ、中国にわたった武士、来歩土亜堀衛門(らいぶどあほりえもん)が気に入り、支配しようとした町。
 一方、幹侘仁(みきたに)は、町を支配するという考えを持っていなかったが、金轍(きんてつ)滅亡、台栄(だいえい)危機の報を聞き、、自らも故郷を治める事を考えるようになった。
 しかしそこには、織楠(おりくす、かつての反期雄(はんきゆう))、反心(はんしん)の両族長がいた。両者ともとりあってはくれなかった。
 だが、堀衛門の行為に怒った明王朝の命により、扇代を攻撃することになった。質・量ともに勝る幹侘仁の落典(らくてん)軍は、あっという間に扇代を占領。
 幹侘仁はその地の民衆に憎まれながらも扇代の支配者となり、堀衛門は日本に逃げ帰った。
 その後彼は、ある人物に招かれた地に、扇代を思い出し、それにちなんでこの地を仙台と改めたそうです。

(民明書房刊 「こうなったら?プロ野球再編問題」 より )





75 :神様仏様名無し様:04/11/05 19:45:53 ID:352Gm8Y7


76 :神様仏様名無し様:04/11/12 05:35:04 ID:wpheqvj9


77 :神様仏様名無し様:04/11/25 22:52:39 ID:cg4XRcnd

 中国のあるころ、蜀・尭・弥・糾の4国が成立し、最大で9の町をめぐって争っていた。
 その町も、滅んだり、生まれたり、合併を繰り返していた。
 そこにあった町は下の通りである。                                                 
鬼世陣(きよじん)→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
大牙亜州(たいがあす)→→→→→反心(はんしん)→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
奈呉弥(なごや)→→→→→→→→→→→→→参尭(さんぎょう)→→→
内闘教(だいとうきょう)→雷恩(らいおん)→→→亜裟飛(あさひ)→→→→→
反期雄(はんきゆう)→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
筋鼓(きんこ)→→→→→→→→→→→(滅亡)↓
瀬寝蛇亜巣(せねたあず)→津場砂(つばさ)→耐庸(たいよう)→荷志哲(にしてつ、滅亡)
     飯来洲(いいぐるす)→→→→→矢馬徒(やまと)→(滅亡)
         難戒(なんかい)→→→→→→→→→→→→→→→→

なお、戦前のプロ野球の呼び名「職業野球」の名はこれに由来する。
(民明書房刊「蜀・尭・弥・糾」より)




78 :神様仏様名無し様:04/12/05 13:25:24 ID:XhugSd9x
嬰宮傑盤(えいきゅうけつばん)

 前漢初期、嬰宮(えいきゅう)を守る役人で駒炉鎖輪(くろさわ)というものがあった。
 彼は元は錦鼓(きんこ)に使えていたが、高祖劉邦の死後の混乱のなか、その死で泰揚(たいよう)、煮刺徹(にしてつ)をへて、さらにその暗殺を経て苣靭(きょじん)へ仕えたものである。以来、彼は嬰宮を守ることとなった。
 その彼が、4年目の夏に急死した。彼の死を惜しんだ皇帝は、嬰宮に新たな役人を配置せず、嬰宮傑盤(えいきゅうけつばん)という石盤をつくり、そこに彼の名と匈奴との戦いで戦死した鎖輪邑(さわむら)の名を刻み、嬰宮におさめたという。
 その後、すばらしい功績を残したものには新たに嬰宮傑盤にその名を刻まれた。奈駕縞(ながしま)、絹傘(きぬがさ)、聞張(ぶんちゃん)などがその代表である。
 現在12人の名が確認できている。後2人の名が刻まれていたみたいだが、いずれも嬰宮傑盤から消されてしまって分からない。おそらく1人は双棍(そうこん)の使い手・寿々鬼(すずき)だと思われる。

 また、この石盤の名から永久欠番という言葉誕生している。
(民明書房刊『野球はじめて物語』より)

79 :神様仏様名無し様:04/12/23 22:43:20 ID:EeYSZe3B
岩熊(いわくま)

五代十国時代、巾哲(きんてつ)地方の役人で岩に熊を彫ったものがあった。
その熊の出来には皇帝も絶賛したが、同じ年、巾哲は突如、檻尽(おりつくす)に併合されてしまった。
檻尽は元巾哲の役人にも身分を保証したが、不審を抱いた磯米(いそべ)らは新興勢力である洛殿(らくてん)地方に亡命し、乗狸(のり)も国外へ去っていった。
岩で熊を彫った男も熊を持って洛殿に逃れようと考えた。しかし、風炉手駒党(ぷろてくと)という強力な軍隊を連れてきた宦官の恋豆巳(こいずみ)が、檻尽王の御爺討(みやうち)へ熊を献上するよう命令した。
男は閃首会(せんしゅかい)の力を借りて、風炉手駒党リーダーの鹿輪声(かわごえ)、善訓(よしくん)、そして老将・緒荻(おおぎ)の説得にも耳を貸さず、洛殿へ逃げ、熊も閃首会によって半ば強引に洛殿へ運ばれた。
これは後に、洛殿岩熊(らくてんいわくま)と呼ばれるようになった。
  (民明書房刊「合併のあとはいつもゴタゴタ」より)

80 :神様仏様名無し様:05/01/06 05:24:22 ID:vFtRBPG4


81 :神様仏様名無し様:05/01/20 03:17:36 ID:zcnKG9E9
獣転一苦(じゅうてんいちく)
 南北朝時代、南朝の首都・橋府威区(ぱしふいく)へ向かうべく、誓撫(せいぶ)、錦迭(きんてつ)、藩灸(はんきゅう)、難怪(なんかい)、
煮智葉武(にちはむ)、炉伝(ろつて)の6軍が向かっていた。
 そして、錦迭が橋府威区へ近づいたとき、炉伝の勢が追いつき、2日がかりでの戦闘になった。
 錦迭は為蛇(なしだ)、噴夷志(ふきいし)、泡廼(あわの)らの奮闘むなしく、蟻塔(ありとう)の放った獣・黄魏(こうぎ)に悩まされ、とうとうこの2日間動くことはできなかった。
 その間に藩灸は織燕徒(おりえんと)に滅ぼされ、誓撫が橋府威区へ一番乗りすることになった。難怪もすでに題栄(だいえい)に滅ぼされていた。
翌年、無頼庵斗(ぶらいあんと)らの力を得て錦迭は今度は誓撫を攻撃し、破った。
 このことから、何か唐突に現れたもののおかげで苦しむことを獣転一苦(じゅうてんいちく)と呼ぶようになった。
 ところで、1988年近鉄バファローズが優勝を駆けて望んだ「10.19」と読みだけでなく人物さえもいているのは偶然だろうか。
(民明書房刊「四字熟語4000」より)


82 :神様仏様名無し様:05/02/15 01:27:31 ID:jshSIzZA
捕手

83 :神様仏様名無し様:05/02/17 00:09:08 ID:ECUSVrWH
遺恥場(いちば)

中国明の末期、いわゆる北虜南倭で国力が弱体化し、政情不安の広がった明では
治世の安定をはかる為、人民の不安をそらす目的で遺恥場(いちば)を設けた。
 これは各地から鼻撮み者、嫌われ者、馬鹿者といった恥さらしな人材を集め、
遺棄するがごとく公開の場に晒し、鬱憤のたまった人々が罵声を浴びせ失笑
することで人民の不満の捌け口とし、政情不安を巧みにごまかした。

記録では南華鵡羅(なかむら)なる地の埜狸卑賂(のりひろ)、香美茶菓
(かみさか)の詫猪稚(たいち)、喪徒奇(もとき)の駄異巣化(だいすけ)
という者たちが、とりわけひどく冷笑されたという。

これらのものの多くが北虜南倭のあてつけかモンゴル、そして日本方面へ
追放されたらしい。

 21世紀のプロ野球でくしくもなかむらのりひろが球界を騒がし、そして
ズバリ「いちば」なる若者が常軌を逸した発言や行動で球界を混乱に陥れたのは
単なる偶然ですまされるのだろうか?

(民明書房刊『歴史に学ぶストレス社会の発散方法』より)

84 :神様仏様名無し様:2005/03/28(月) 13:04:00 ID:8wN2ENBB
前田智徳キボヌ

85 :神様仏様名無し様:皇紀2665/04/01(金) 10:50:35 ID:NwK+uSy6
度過弁(どかべん)

明王朝時代に作られた小説で、三部で構成されている。春秋・戦国時代の
中国をベースにしており、第一部は主人公、耶麻陀汰朗(やまだたろう)が
仲間を率いて「好死園」という武芸大会を目指す物語である。第二部は耶麻陀や
その仲間、宿敵達が各国に仕官し、互いに戦うという戦争色の濃いものとなっている。
第三部は耶麻陀と宿敵の威糠維(いぬかい)が謀反を起こし、それぞれ「超星国」、
「鉄犬国」を旗揚げするというストーリーである。

第一部はかなり反響を呼び、武道家を目指す子供達が増えた、と当時の記録書にある。
しかし第二部以降では実在の武将が小説の登場人物に殺されるシーンが多数見られ、
特に第三部では歴史上の出来事を完全に無視した展開となっており文学者からは
「見るに値しないもの」と酷評されている。しかし第一部は傑作であることには変わりなく、
現在の中国文学にも多くの影響を与えている。ちなみに「度過弁」というタイトルは主人公
耶麻陀の弁当に入っている白米の量が度が過ぎるほどの量だったということから来ている。
また、連載当時南海地方にいた巨漢の武将、華皮(かがわ)のあだ名が度過弁だったという
ことはあまりにも有名である。

(民明書房刊『中国奇書大全』第二章、明時代の小説より抜粋)

86 :神様仏様名無し様:2005/04/02(土) 03:45:58 ID:P497ZfnK
十馬損(とまそん)

與御瓜(よみうり)地方の鯨里(げいり)は、その地方の名門・鋸神軍(きょじんぐん)の兵として採用された。
最初の年こそ普通に活躍していたのだが、2年目は散々であった。
ある時、1000人の兵を率いてあっさりと囲まれ、彼だけが生き延びておめおめと鋸神軍の陣地に帰ってきた。
それ以来、彼は「千封騎(せんふうき、千人の人間の動きを封じてしまう無能な指揮官の意)」と呼ばれるようになった。
またあるとき、彼はやせた馬を数体購入した。しかしそれらはとんでもない悪徳商人のぼったくりであり、本来なら立派な馬があと10体買えるはずであった。
その事実が與御瓜の地全土に広がったとき、彼は十馬損(とまそん)という新たな仇名を与えられるのであった...。

(太公望書林刊「役立たず人間の中国史」より抜粋)

87 :神様仏様名無し様:2005/04/03(日) 10:50:38 ID:xTh7nlPI
緑井戸

春秋戦国時代、反心(はんしん)国は極度の人材不足に喘いでいた。そこで
急遽、密かに国交関係を持っていたローマから兵力を借りることとなった。
その兵を束ねていたのがグリンヴェルス将軍である。グリンヴェルスは勇猛
果敢な将としてその名をローマに轟かせていた。彼は緑色の苔に覆われた井戸
を持つ家に住んでいたため、「緑井戸将軍」と呼ばれるようになった。
彼は早速兵を率いて香阿府(かあぷ)国との戦いに勝利するなど活躍を見せていたが、
七度目の戦いとなる拠塵(きょじん)との戦いで流れ矢を足に受けてしまった。それが原因で
病臥し、そのまま「神のお告げだ」と言ってローマに帰国してしまった。

本章とは関係ないが、最近わが国の野球界においてGREENWELLなる選手が同様に「神のお告げ」で帰国した事件があったが
GREENWELLを直訳すると「緑井戸」となり、この偶然の一致に筆者は非常に驚かされたことを付記しておく。

(民明書房刊 『中国助っ人将軍列伝』より

88 :神様仏様名無し様:2005/04/07(木) 00:43:00 ID:sHtqZG+X
美瀬李(みせり)

美瀬(みせ)は現在幻の地として史書にその名を残している。
文字通り美しい川沿いの土地であったようで、伝説上の神々に愛されていたという。
川沿いには李(すもも)の木が多く植わっており、伝承ながらその甘さは中原中に
知れ渡っていた。周の時代には、穂柳智(ほりうち)という官吏がその地を探し当てた
という。彼はさっそく美瀬にあった李をかき集め、文帝に献上したところ、李は火柱を
あげ爆発した。そのため、穂柳智は文帝を暗殺しようとしたとして投獄された。
このことから、噂では良くとも、実際はひどい物を「美瀬李」と呼ぶようになった。
のちに解放された穂柳智は、彼が美瀬だと思っていた地に住んだ。生活のために桑の木
を植え、蚕を飼い始めた。みるみるそこは蚕だらけになり、美瀬李は食べ尽くされた。
衆人にいう「美瀬李は蚕になった」というものである。
これは無意味なものを有意味なものに転じさせるという意味であったが、最近では
無能な者をやめさせるという意味で使われることが多い。

(民明書房刊 『中国諺転訛集』ー無能な人を表す 篇ーより)

89 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/04/07(木) 10:39:03 ID:sHtqZG+X
威谷都方(いやつほう)

漢代、西域の威谷(いや)に威谷都(いやつ)という城塞都市があったという。
残念ながら現在のどこにあたるかは不詳であるが、香阿府(かあぷ)と並ぶ異民族
の都市で、数人の留位親(るいしん)という特殊な役職の者により統治されていた。
しかし、香阿府人の人柄が「剛直にして情に厚い」(班固評)のに対し、
威谷の人間は「悪事を好み、蛇矛牌屋(じゃむはいや、>>29参照)が多い」(同上)
という。代表的な逸話を紹介しよう。
香阿府の佗何覇(たかは、字は子建(しけん))は非常に優れた商人で、威谷都での
取引では多くの儲けを得ていたという。彼の名は留位親たちにも知れ渡っており、彼
らの間ではいずれ排除せねばならない存在であった。威谷都で佗何覇が鬼世陣(きよ
じん)出身の商人と取引していた時、田丹(たに)という留位親が佗何覇に向かって
「今、商品の刃物の刃先をこちらに向けた」と言い、手持ちの金品を没収のうえ追放
した。寒風吹きすさぶ中、佗何覇は威谷都には蛇矛牌屋がいる、という意味で「威谷
都方蛇矛牌屋(いやつほうじゃむはいや)」と言い残し薨れたという。さらに、留位
親たちは威谷都にいた香阿府の人間全員から罰金徴収に踏み切ろうとし、反抗した阿
羅亥(あらい)を全財産没収のうえ追放にした。彼も同様に「威谷都方蛇矛牌屋」と
言った。一大事とみた香阿府の有力者、費射子(ぴいこ)は留位親たちに苦情を言お
うとしたが、威谷都からは門前払いを受けた。香阿府の人々は、香阿府の武術の教師
である師乙(しいつ)に懇願した。「威谷都方の蛇矛牌屋をなんとかしてください」
師乙はすぐに威谷都に赴き、「威谷都方蛇矛牌屋!」と叫びながら留位親たちを葬乱
(ほうむらん、>>37参照)したという。それは6月5日のことであった。
以降、「威谷都方蛇矛牌屋」は「卑怯者」の意で使われるようになり、短縮されて
「威谷都方」と言われるようになった。

(民明書房刊『感情に合わせて叫ぼう中国語入門』(卑怯者に会った場合) より)

90 :神様仏様名無し様:2005/04/10(日) 14:28:00 ID:vjrCNQSx
「民明書房大全」探してんだけど見つかんね〜

91 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/04/15(金) 00:34:05 ID:3RvHmbrb
打射唾(だいだ)

巷間に、戦争は外交の延長であるという。
それに従えば、打射唾は外交手段といえる。
これは文字通り、打ち叩くこと、射ること、唾をはくことである。
順序は相手により、弱い相手ならば打、より強い敵には射、さらに
強い敵には唾を用いるという鉄則による。弱い相手にはこちらが打
って出て勝利し、あまりに強い相手には唾をはき(=口で戦うとい
うこと、つまり舌戦)、その中間の敵にはこちらが被害をこうむら
ない程度に遠くから攻撃し、それぞれ弱体化を狙えという方法であ
る。したがって、この打射唾を用いるには、自分と相手の強さを相
対化するにあたって、正確な観察が必要になる。誤って唾射打にな
った時、その勢力は敗れ去ることが通常である。打射唾を冷静に用
いることこそ、覇道の近道であるというのは、かの孫?のことばで
ある。香阿府では、真知駄(まちだ、のちに反心に出奔)という打
射唾で優秀な人物がいた。ほかには、耶儀(やぎ)、佗何亥(たか
い)など。

(民明書房刊『外交入門』用語編)
あんまりいいのが思いつきませんでした。スマソ

92 :神様仏様名無し様:2005/04/15(金) 11:49:53 ID:WsTnyfHH
>>90
普通の本屋に売ってる。
アマゾンでも買えるぞ。


93 :神様仏様名無し様:2005/04/16(土) 01:09:08 ID:AsAC+vAS
獅救(しきゅう)

戦国時代の九州において、仁師轍(にしてつ)という野武士の集団がいた。神も仏も信じず、稲御(いなお)様という謎の存在を崇拝していたといわれ、都与太(とよた)や蒼葉通刀(あおばつと)、海堂(かいどう)といった男たちがいた。
彼らは、どこで紛れ込んだのかわからないが獅子の親子を飼っていた。が、安土桃山時代になり、彼らが消えると、その獅子の親も死に、子は路頭に迷うことになった。獅子の子を救ったのが沌毘(とんび)であった。
彼は鉄砲の名手であり、その腕で獅子の子を連れながら1650人もの猛者たちを餌食にしたという。その腕っぷりは獅子を救う、ということで獅救(しきゅう)と呼ばれるようになった。
江戸時代に入り、沌毘は武蔵に落ち着いた。
あるとき、前の年に取引を抑えられ、1450発目の弾を受けた近畿地方の麻薬商人・泥微巣(でいびす)が再び取引しているところを襲撃したところ、右ひじに弾を受けた泥微巣は突進し、沌毘を殴って一人逃走したという。
沌毘は顔面と右足を負傷しながらもあと残っていた取引相手は何とか抑えた。
なお、まもなく泥微巣は幕府に捕らえられて島流しとなり、中部地方で目の出なかった商人・無頼安杜(ぶらいあんと)に取って代わられたという。
 その頃、沌毘は賭博に手を染めて前線を去るが、獅子の子は立派に成長し、鍋弓(なべきゅう)や末坂(まつざか)らが引き取ったという。

 獅救という言葉から発生したのが野球の死球であるが、与死球の日本記録を持つ東尾修が”トンビ”と呼ばれるのも、この沌毘にあやかってのことである。
 (民明書房刊「戦国事始」より)

94 :神様仏様名無し様:2005/04/20(水) 20:41:01 ID:YtHEidgF
王朱劣等(おうしゅれっとう)
 薬瑠戸(やくると)地方に、かつて桟恵(さんけい)という町があった。かつてはこの地方の最有力の町であったが、これから話す時代のころには普通の町になっていた。
 その桟恵の町において、反心(はんしん)征伐にあがった台栄(だいえい)の軍を迎えたときのこと。
台栄の王は、桟恵の町の中の寺で一番大きい布寺(ふじ)近くの朱家に陣を張ったのだが、突然、布寺の椀内(わんない)派の高僧・御弥裟胡(みやさこ)と耶摩倶智(やまぐち)が突然台栄の陣に乱入して、
「王朱劣等!(おうしゅれっとう、台栄の王と朱家のものは自分たちに比べて劣っているという意味)」と叫んだ。
これには王はもちろんのこと、沫那架(まつなか)ら珀陀天刈鉄党(ひゃくだてんかるてつと)の4人他軍のすべてのものが怒り、その場で御弥裟胡を火あぶりにし、耶摩倶智の首をはねたあと、これを許した布寺の椀内派の責任を問いただした。
布寺は謝罪するものの、王が納得する回答を出せなかった。
 結果、台栄王は布寺を焼き、すぐに丹津恵(につけい)地方の手零備塔興(てれびとうきょう)に陣を移し、反心との最終決戦に臨んだという。

 王シュレット事件が2003年に起こったが、これの名前の由来は以上の話のとおりである。テレビ東京に放映させて地方の視聴者を怒らせた当時のダイエー球団の方々には反省を求めたい。
(民明書房刊「誤解だ!! 〜本当の名前の由来を教えちゃう本」より)

95 :90:2005/04/20(水) 22:30:30 ID:rVc1cOi/
>>92
御意‥

96 :神様仏様名無し様:2005/04/21(木) 00:00:46 ID:OM/CUExN
羅苦転(らくてん)
鎌倉時代に入ると、様様な新仏教が興った。臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗、
浄土真宗などが有名であるが、その影には無数の日の目を見なかった宗教・宗派
があったのである。山下何某を開祖とする羅苦転宗は「修羅を行くがごとく
転がりまわるほど苦しんだ者だけが極楽浄土へゆける」といういわば
「ドつぼ」の薦め、マゾ的体質の奨励であったため、質実剛健を旨とする
鎌倉幕府には疎んじられた。やがて日の目を見ることなく消え去ったという。

 それでも水面下で「らくてん」は都合よく解釈され、転がり落ちてこそ極楽の
「落転」、ノー天気に楽しむことこそ極楽の「楽天」、世の中のしんがりから
裸一貫出発して苦しみを克服する「裸苦殿」などと「らくてん」への憧れは一人
歩きし、元軍の侵攻した元寇の頃には鎌倉新仏教への失望から
「らくてん」運動は密かに活発化したという。

 21世紀の今、中国で大規模な反日デモが勃発し、日本では近年類を見ない
対中危機感が膨らむ状況である。くしくも同じ時期に「らくてん」と称する球団が
「楽天」で、まるで極楽浄土への切符を望むが如く惨敗を重ね、惨敗経験豊富な
ノー天気で剃髪した「山下」ヘッドコーチが迎えらた。「楽天」球団の惨敗ぶりは
「歴史は繰り返す」の必然であろうか。

(民明書房刊「負けるも兵法」より)


97 :神様仏様名無し様:2005/04/25(月) 23:49:31 ID:w4z8ejEo
伍連蛇(ごれんじゃ)
 現在の仁智覇夢(にちはむ)地方はもとは刀衛(とうえい)地方といい、それが仁津卓(につたく、1年で滅亡)を経て現在の名前になった。
 仁智覇夢になって2年目、御鴛汰(おおした)や大子儀(おおすぎ)ら刀衛の宦官を追放したころ、刀衛の旧都にて、ある小説が話題となった。それが伍連蛇(ごれんじゃ)である。
 これは赤・青・黄・桃・緑の5匹の蛇が力をあわせて9610匹の牛と闘う物語であり、その後傘張漢(さんばるかん)、雷武漫(らいぶまん)、剛豪付愛舞(ごうごうふあいぶ)などとシリーズ化された。
 その28作目、出華憐蛇(でかれんじゃ)がかかれたころ、仁智覇無は首都を薩幌(さっぽろ)に移していた。まもなく、強敵・台栄(だいえい)が攻めてきた。
 このとき、反心(はんしん)地方から遠征に出た後、仁智覇夢に身を寄せた神城(しんじょう)という武将があった。彼は同じく反心出身の壷威(つぼい)、怪僧・緋猪璃(ひちょり)らとともに伍連蛇に紛し、味方を鼓舞した。
 これにより味方の士気は上がり、見事台栄軍を返り討ちにしたのある。

 ゴレンジャーの名前はこの伍連蛇から付けられたのはいうまでもないのだが、現実においても日本ハムのSHINJO外野手らがゴレンジャーに扮するとは、筆者らも驚かされた。
(太公望書林刊「スーパー蛇隊超全集Ver.7」より抜粋)

98 :神様仏様名無し様:2005/05/03(火) 20:19:31 ID:ez6nGsFw
蘭子(らんす)と掌打

 名将・黄馬(こば)の後を継ぎ、香阿府(かあぷ)の総指揮官になった亜難(あなん)は鬼世陣(きよじん)との長きに渡る激闘の末、
これを倒すが、その後すぐに起こった聖舞(せいぶ)との戦いにまさかの逆転で敗れてしまった。
 ここから彼は、新たな戦闘スタイルを生み出した。それは、蘭子(らんす)と呼ばれる槍を用い、その槍を大振りで戦うことであった。
しかし、それではなかなか相手に当たらず、スキを見せることになるため、彼はそれに小技、特に掌打を用いてそれを併用した。

 ちなみに、1987年のセントラルリーグの本塁打王が「ランス」、三振王も「ランス」、首位打者が「正田」、両者の所属球団が
「カープ」、監督は「阿南」であった。阿南監督はランスと正田の名を聞いてこの話を思い出し、彼らを使ったに違いない。

(民明書房刊「小鯉の森」より)


99 :神様仏様名無し様:2005/05/08(日) 02:29:48 ID:Pk9ggXeb
思明舵射(しめいだしゃ)

 唐の時代、安禄山と史思明が安史の乱を起こしたとき、史思明が発案した水軍の戦法であるが、これがどういった方法で行われたのかどうかは諸説あり、現在のところ結論は出ていない。
ただ1点、敵の舟の舵に矢を射るということだけが分かっており、そのため思明舵射(しめいだしゃ)という名が残っている。
ある研究者は、防御力に長けているが攻撃力に欠ける舟が攻撃すると見せかけて、その隙を突いて攻撃力に長けているが防御力に欠ける舟に攻撃させるのではないか、と考えている。

 なお、これが野球のDHの日本語訳・指名打者の語源といわれているが、聖武(せいぶ)皇帝を名乗った安禄山には、太武地(たぶち)や出棲取出(ですとらで)など、偶然にも西武ライオンズの歴代指名打者にそっくりな名前の部下が多くいたということを付け加えておく。

(ミュンヒハウゼン出版刊「中華反乱伝説」より)

 

100 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/05/08(日) 10:26:26 ID:mB6RY4YD
秘薬解湯(ひやくげとう)

黄帝が持っていたといわれる伝説の薬。
これで有名なのは、その時代の桐番(きりばん)の逸話である。
桐の木は、今昔を問わず高級な木材として珍重されていた。
そのため、桐の木は桐の番をする桐番によって守られていた。
しかし、桐の木のそばに長く居た桐番たちは次々と謎の病を得て倒れ、
しまいに桐番の役には誰も就きたがらなくなった。
そこで黄帝は秘薬解湯という薬湯を作り上げ、桐番たちに与えた。
すると彼らは元気を取り戻し、再び倒れても解湯のおかげで立ち直ることが
できた。

現在でも、キリ番と100get!は深い関係にあるが、それはこの話題に起因する。
(民明書房刊『ネットサーフィンの流儀』)

101 :神様仏様名無し様:2005/05/18(水) 20:47:59 ID:eTfxj3oG
葉蓮泰院(ばれんたいん)
 唐の半ばごろ、元鬼世陣(きよじん)の飛呂尾可(ひろおか)は、弱体化した呂津手(ろつて)に招かれ、葉蓮泰院(ばれんたいん)という学校を建て、若い武将の育成に当たった。
 葉蓮泰院の育成法は、武将の自主性にまかせるもので、最初こそ結果は出なかったものの、1年後には安史の乱にて聖武(せいぶ)皇帝を名乗った安禄山を破るまでに成長した。
 しかし、飛呂尾可は若い武将は指揮官の管理におくべきだという考え方のため、葉蓮泰院の育成法が気に入らず、安史の乱を鎮圧したのが呂津手軍でなかったことを知ると、葉蓮泰院を焼き、その指導者たちを追放した。
 結果、呂津手軍は元の木阿弥となり、飛呂尾可は粛清された。
 行き詰まりとなった呂津手が唐の末期に葉蓮泰院を再建したのは、必然のことであった。

民明書房刊「ゼネラルマネージャー王」より


西武と安史の乱は絡めやすい気がした。


民明書房の新刊

蜀・尭・弥・糾
職業野球の名の由来となった4国の歴史が今解明される...    1800円





102 :神様仏様名無し様:2005/05/18(水) 22:48:31 ID:NZsx5h5f
乱酢(らんす)

を考えてください。僕には無理です_| ̄|○

103 :神様仏様名無し様:2005/05/21(土) 15:23:30 ID:aySPMy8O
御矢奮(おやぶん)
 殷時代の楠界(なんかい)にあった称号で、自らが弓を引き矢を放つことで、兵士が奮起するほどの使い手に与えられた。
 その称号を得た緒長倭(おおさわ)は、仁智覇夢に請われその指揮官となり、紅烙苑(こうらくえん)で鬼世陣(きよじん)に敗れはしたものの、呂津手(ろつて)など、数々の敵を打ち破った。
その後隠居・出家し、余袴刃魔(よこはま)の堰倶治(せきぐち)が住職(?)を勤めるとある禅寺にて御位賢番(ごいけんばん)として弟子たちに喝を入れたとされている。
 その御矢奮(おやぶん)の号をえた最初の武将は緒長倭が楠界にいたころの師匠である吊緒香(つるおか)であるが、彼は戦場において何度も金を発見し、楠界を乃矛讃(のむさん)追放後からは考えられないほど豊かにした。
 故・鶴岡一人氏や大沢啓二氏を「親分」と呼ぶのはこれらの話から来ているのだが、鶴岡の「グラウンドにはゼニが落ちとる」という名言が吊緒香のエピソードに由来しているのは言うまでもないだろう。
(民明書房刊「親分の歴史」より)

民明書房のベストセラー
赤経流500年史
「赤ヘル」の由来となった武術「赤経流」...その500年の歴史を紐解く    3000円

104 :神様仏様名無し様:2005/05/31(火) 20:20:15 ID:rIbuIXdz
バックスクリーン三連発キボンヌ

105 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/05/31(火) 22:07:50 ID:NoTuauiH
>>37に書いた。

106 :神様仏様名無し様:2005/06/01(水) 01:17:31 ID:VJlNLfHO
オレは「レーザービーム」の起源を知りたいな

107 :神様仏様名無し様:2005/06/02(木) 23:49:22 ID:bAfr3ueg
多駄愉気(ただゆき)
まず、用語とは関係ない(ry


108 :神様仏様名無し様:2005/06/03(金) 03:49:17 ID:EkKGd5Qa
ノロイ
 木馬で有名なトロイとは対照的に、その姉妹都市・ノロイの存在はあまり知られていない。
ノロイでは女将軍シャルロッテ・マリンズ率いる軍隊が遠征のとき食糧を調達していたのだが、その度、ジョン・クロッキーやマッコイ・コサックといった部下が負傷してしまったという。そこで、敵と戦うとき、極秘にノロイの高価な布を送りつけてみたところ、圧勝を収めた。
 また、中国近くの墓州頓(ぼすとん)から遠征にやってきて墓州頓に粛清されかかった蛮火猪(ばん・びいの)は、この話を聞き、大量にノロイの骨董品を墓州頓に送りつけ、以降、その墓州頓は勝てなくなった。
墓州頓の人々がその原因がノロイの骨董品であるということを突き止めたのは86年後、祈祷師の司厘虞(し・りんぐ)によってであった。
 その後、ノロイの名は歴史の名に埋もれるものの、日本に「呪い」という言葉としてその一片を残したのである。
(民明書房刊「幻世界紀行」より)

うーん、無理があるか。いや、ありすぎる。
>>106誰かやって...。


109 :神様仏様名無し様:2005/06/11(土) 22:58:45 ID:7knTlQuG
刹恥射(さつちい)
 殷時代楠界地方の武将・乃矛讃(のむさん、>>15参照)の後妻。結婚したときにはすでに3人もの子供を生んでいた。
 両者はダブル不倫の関係にあり、反乃の部下の部屋の付近にはスパイを置いていたともいわれる。そして、乃矛讃の寵愛を受けた刹恥射の一族は栄華を極めた。
 それらがもとで乃矛讃が指揮官の座を碑魯畝(ひろせ)に奪われたとき、これを吊緒香(つるおか、>>103参照)の陰謀と考えた乃矛讃は衛那津(えなつ)、樫倭葉螺(かしわはら)とともに反乱を起こし、自らの城に篭城して闘うも城は落ち、
乃矛讃は呂津手(ろつて)、衛那津は香阿府(かあぷ)、樫倭葉螺は仁智覇霧(にちはむ)に散りぢりになった。
 そして、楠界も弱体化し、台栄(だいえい)に滅ぼされるきっかけとなった。
 その後衛那津は香阿府で、雄障(ゆうしょう)という、戦場にて使用する障害物を作る仕事を請け負う稼業を始め、やがて樫倭葉螺と再会することになったのはいうまでもない。
 なお、乃矛讃の兜は後に唐の時代になっても聖武(せいぶ)皇帝を自称した安禄山の部下・磐澄(ばんちょう)が使い、それは禄山が殺されて鬼世陣(きよじん)に投降してからも使用したようである。
 話を戻すが、乃矛讃は反心(はんしん)でも彼女のせいで追放され、以降は我々の知らないところで後進の指導に当たったという。
弟子の代表として、鬼世陣の埜馬倶恥(のまぐち)がいる。
(民明書房刊「世界の奇女事典」より)

110 : :2005/06/11(土) 23:08:06 ID:166XrrUC

         知られざる工作機関


》 電通 マスコミ
    番組制作者を通してTV出演者に、無理矢理「ヨン様…」と言わせたり、韓国系に
    装飾するなどの、米国発の誘導工作をしばらく続けさせる。 この期に及んで
    日テレ・フジすら中国系の宣伝を貫く異常さからも、反日誘導工作と判る。
    「 性を煽る 非日本的な人種・顔をCM等に多用 場違い情報で目眩まし 白痴化 」
》 某掲示板
    アメリカ発、電通経由・発の指令工作が、見事なタイミングでマスコミ他、ネットで
    事件・流行・企画でリンクしている。 現実的な反中朝工作には、なんと妨害する。

    専属工作員の中に漢字の読めない在日・帰化者もかなり多く、漢字の読みミス
    を誤魔化すために 「初心者か?w 」と切り返す、ネタ化の手法を編み出す。
    初期は、「若者的」 などと勘違いする無知な一般人も多かったが、
    一見 「荒らし」「仲裁役」のように見えるものも、実は多くが専属工作員である。
     真面目な人を挑発等して、アクセス数を増やしたり議論誘導や情報隠蔽する為。

》 海外のネット マスコミ
    北中米、オセアニア、英国圏等の国に居住した者なら気付いたと思うが、
    日本人を滑稽に扱った表現の4コマ漫画や映画などが、さりげなく多い。
     ネット内て組織的に、 欧・亜の国々で日本を徹底的に非難・中傷したり、
    米・英で「俺たちは日本人様だ」 と日本人役で挑発したり。正体は後述に同じ

》 ロリータ サイト  掲示板、エロサイトと同じく、目的はIP調査が多い。特にC○A系が諜報に利用
》 新興宗教  日本の近代以降の政党や大規模宗教は、ほとんどユダや製である。
           お得意の手法により、政党と同じく幾つかがヤラセの争いを演じる
》プロ野球機構 GHQの洗脳工作「3S」の要。 「天皇的」なものは誘導工作のためにある。
》 AFS     高校2年次に各校から選抜して米国留学する学生にお馴染みの仕組み。
           あのロックフェラー財団である。占領工作が実質的にはユダやの手で

111 :神様仏様名無し様:2005/06/12(日) 17:29:09 ID:H9Bx68HP
>>110はなんなんだ...。

サンダース将軍

 反心(はんしん)国は春秋戦国時代よりひそかにヨーロッパと国交関係を結んでいた(>>87参照)。それは唐の時代になっても続いており、サンダースという将軍が率いる兵を借りていた。
 ところが、反心(はんしん)国が安史の乱を平定しかけたとき、最大の功労者である羽阿棲(ばあす)という武将が、少しはなれた讃韓(さんかん)という地の王に就くことになった。「裏切られた!」
 そう考えた庶民は激怒し、羽阿棲の行方を捜し、そして彼にそっくりなサンダース将軍を「羽阿棲や!羽阿棲や!」と叫んで捕らえ、怒屯彫(どとんぼり)の地をつれまわした挙句、怒屯彫の河に突き落として殺した。
 サンダース将軍はその民のことをとてつもなく恨みながら息絶えていったといわれている。
 その後、反心国にはいろいろとよくないことが180年間も続いたのであった。
 さて、1985年の阪神タイガース優勝時にタイガース・ファンがある像を道頓堀川に落としたが、それが「カーネル・サンダース像」。将軍=カーネルであり、サンダース将軍との共通性を感じられずにはいられない。
(民明書房刊「現実世界にも存在した!!リアル・デビルマン」より)

112 :神様仏様名無し様:2005/06/13(月) 21:04:45 ID:231h6UYq
>>106のリクエストにお答えして

 冷座・火忌(レーザービーム)
1840年に起こったアヘン戦争では、清軍とイギリス軍の装備の違いが明白となり、
清は劣勢を強いられていた。致命的だったのは大砲の射程距離の違いであり、
清軍の大砲の届かない距離からイギリス軍艦の艦砲射撃を受け沿岸都市は
大打撃を被った。急遽、道光帝は超大型大砲の冷座(れいざ)砲と火忌(びいむ)砲の
実戦導入を決定したが、両砲ともに威力はあるもののイギリス軍艦まで届く射程距離
を有していないことが判明した。そこで清軍の軍事顧問である伊地浪(いちろう)は
両大砲を組み合わせて砲身を長くし、超長距離砲の冷座・火忌砲を完成させた。
この大砲によってイギリス軍艦の射程外からの砲撃が可能になり、一時期イギリス軍を恐怖
に陥れた。結局戦局を打開するまでに至らなかったものの、冷座火忌砲が早期に開発されていれば
清国は列強による分割を受けなかったかもしれない。
なお、日本人メジャーリーガーイチロー選手の強肩振りを「レーザービーム」に例えられているが、
この語源は言うまでもなく清国が誇る超長距離砲、冷座・火忌砲から来ていることに他ならない。

民明書房刊「逆転の中華大陸戦争史」第10巻〜清国編より抜粋

113 :神様仏様名無し様:2005/06/13(月) 22:01:09 ID:D0dbvW96
>>112
グッと近代になったなw


114 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/06/13(月) 22:34:16 ID:9vdN3CsU
>>112
これはうまい!乙。

115 :神様仏様名無し様:2005/06/14(火) 20:38:33 ID:35aW6/yk
長すぎるので三つに分けます

留臼(ルース)
留臼は貧しい家庭に生まれ、悲惨な生活を送っており心身ともに荒んでいた。これを見かねた
とある将軍が留臼を引き取り育てることにした。留臼はそこで武芸を磨き、20歳になる頃には
郷里で名を知らぬ者はいなかった。真っ先に留臼の才能に目をつけたのが墓州頓であり、
以後、墓州頓を追われ(>>108参照)紐育国に身を寄せることになった。
 おりしも同時代、市俄古(しかご)国で「黒靴下の変」が起こり、8人の武将が処刑されるなど、
武将のモラルが疑問視されていたが、留臼というカリスマ武将の登場により再び武将達の
時代が訪れる。何と言っても留臼の魅力は葬乱であり(>>37参照)それまでの戦闘スタイル
を一辺させてしまうほどだった。留臼の登場後を葬乱時代と言うこともある。(続)


116 :神様仏様名無し様:2005/06/14(火) 20:39:16 ID:35aW6/yk
彼にまつわるエピソードは数あれど、やはり「座臥の契り」に限る。ある日、留臼の部下が
泣いているのを見て、その理由を尋ねたところ、「私の息子が病を患い、家から出られなく
なってしまったのです」と言った。そこで留臼は「よし、お見舞いに行こう」と自ら見舞いに
行くことになった。部下の息子は座臥に伏しており、彼は「私は留臼将軍を尊敬しています。
是非とも次の戦では見事な葬乱を見せてください」と涙ながらに言い、留臼は「よし、約束
しよう」と言った。さて翌日、紐育は敵国から攻められ、留臼が迎撃にあたることになった。
留臼は約束のため、敵武将に一騎討ちを申し込むが留臼の恐ろしさを知っているため一方的
に断られる。仕方なく集団戦を挑むが数分もたたないうちに敵が撤退を始めた。このままでは
葬乱ができない、そう考えた留臼はなんとたった一騎で逃げる敵軍に突っ込み、見事敵将を
葬乱した。この様子はすぐさま部下の息子に伝えられた。「ああ、将軍は約束を守ってくださった」
と泣きながら喜び、その後息子は快方へと向かっていった。
 このような活躍により、後に留臼は皇帝から「蛮火猪」(>>108参照、野蛮で、猪のようだが燃える男の意)
の称号を与えられることになる。(続)

117 :神様仏様名無し様:2005/06/14(火) 20:39:51 ID:35aW6/yk
晩年の留臼は使節団として倭国に赴き、中国の兵法、戦闘術を伝授している。そこでわずか17歳の倭国の武将、
沙環邑(さわむら)と模擬戦で激闘を演じたことはあまりにも有名である。留臼は後に病にかかり、53歳でその生涯を
閉じた。留臼の死に中国中は嘆き悲しみ、民衆の泣き声は1ケ月もの間途絶えることがなかったという。
留臼は生涯で714回、年間60回の葬乱記録を持ち、30年以上破られることがなかった。後に麻栗鼠(まりす)が
年間61回の葬乱記録を打ち立てるが、合戦数の違いを理由に長年記録として認められなかった。阿論(あーろん)
は755回という記録を打ち立てが、中国中央博物館にある彼の用いた矛の横には阿論の合戦数と留臼の
合戦数が併記されている。このことから留臼は阿論よりも少ない合戦数で記録を打ち立てている、ということを示そう
という展示者の思惑が読取れる。このように、留臼は今でも中国人の英雄であり、「関羽か留臼か」と呼ばれるほど
である。このトピックを読んで興味を持たれた方は是非、旧紐育国領にある楊喜維須(やんきいす)城跡地を訪れてほしい。
なお、楊喜維須城は別名、「留臼之館」と呼ばれている。

民明書房刊 糸羽稼頭夫著「偉大なる古代中国豪傑100人選」より抜粋

118 :神様仏様名無し様:2005/06/29(水) 03:18:06 ID:YVTmgolz
王 河李(おう かわり)

 漢王朝のころ活躍した。彼は普段は飯を5杯も食らう大食漢であったが、それに似合わぬ機動力で敵を苦しめたという。
 味方がピンチのときも、愛馬「尾那火我(おなかが)」にそっくりな馬を大量に用意しておき、それに部下を乗せて出撃し、敵を恐れもせずに突進していった。
あまりの勢いに、敵は「尾那火我いっぱいです」と叫んで逃げていった。日本語で食事の後に言う「おなかがいっぱい」という言葉の起こりである。

 そして彼の名が日本語の「おかわり」に変化し、やがて西武ライオンズの中村剛也内野手のニックネームが「おかわり君」となるまでに至る。

(民明書房刊「中国の怪人・超人列伝」より)

119 :神様仏様名無し様:2005/07/06(水) 23:54:05 ID:vfDHXePP
【田尼茂】(たにしげ)

漢楚が覇権を争っていた時代、斉の国に田という尼がいた

田は、奇跡を起こす尼として知られ、その力は茂み(脇毛のことと思われる)から出ていたという

また、この田は大変気まぐれであったと言われており、良い奇跡が起これば感謝の念を、悪い奇跡が起これば恐怖の念を込め、斉国民はこう言ったと言われている

「是又田尼茂(これもまたたにしげ)」

現在、ネット上で中日ドラゴンズ・谷繁捕手の起こす数々の事態を、「これもまたtanisige」とひとくくりにするのは、tanisigeが田尼茂に由来しているからなのだろう

民明書房刊・中国に見る野球のルーツ〜tanisigeからマクー空間まで


120 :神様仏様名無し様:2005/07/07(木) 23:05:41 ID:vk9VqJNj
葛葡(かつぷ)
1、泰葛葡(たい かつぷ)のこと。
夏王朝初期に大量の按舵(あんだ、誰か詳細キボンヌ)を作ったことで有名。
大リーグの伝説の打者・タイ・カッブとの関連性は不明。

2、金葛葡(きん かつぷ)のこと。
漢時代、耶句瑠杜城(やくるとじょう)下において、追放された宦官が、”玉狩り”を行うという事件が相次ぎ、城主・布流汰(ふるた、>>15参照)も未遂であるものの襲撃を受けた。
また、若き武将・李鹿輪(いしかわ)も襲撃を受けたことでついに布流汰は金葛葡に護衛を任せた。
彼は事件を解決し、その上布流汰と意気投合し、長らく彼を守った。
(民明書房刊「中国の奇人・変人列伝」より)

121 :神様仏様名無し様:2005/07/10(日) 23:38:40 ID:Ke0Y3WDd
捕手

122 :えみ〜だ ◆OSAK6/goy6 :2005/07/11(月) 13:04:41 ID:pRxiuGTW
初里編巣(ういりあむす)

出自は不詳。反心に住んでいたが、異民族の傭兵として雇われたため
反心族でないことがわかる。彼には必殺の簾来朶(すらいだ)という
武器があった。それはすだれが飛んでくるように見えたため、対峙し
た者はのけぞって逃げ出したという。彼は反心でその武勇を以て重用
されたが、一時的に郷里に帰っていた時期があった。その時、反心の
傭兵軍団が掠奪のために彼の郷里を襲撃した。彼は泣く泣く同僚と戦
うことを余儀なくされ、軍団を御林飛都区(おりんぴつく)に誘い出
し、麩児茂徒(ふじもと)をはじめ数人を打ち取ったという。初里編
巣がいるとわかった傭兵軍団はただちに撤退した。のちに彼は反心に
帰順し、以前のような活躍を見せたという。
(民明書房刊『異民族外伝』より)

123 :神様仏様名無し様:2005/07/14(木) 22:29:58 ID:FDzgpteO
李倶麗昼道(りぐれいひるどう)
 中国の合戦は、ある時期より、夜に行われることが多くなった。
 そんな中、市俄古(しかご、>>115参照)国で蕪州(かぶす)後を束ねる翁拿亜(おうなあ、>>63参照)の李倶麗(り ぐれい)は、
そのような戦を嫌い、「戦は昼に行うものである」といい、夜の戦闘を禁じる李倶麗昼道(りぐれいひるどう)という詔を発した。
 やがて、蕪州では重要な戦闘に勝つことができなくなってしまった。
 その原因は敵の夜襲戦法に李倶麗昼道のために対応できないことが原因だったのだが、李倶麗はあるとき親交の深かった日本人の入井豪(いりいごう)と八木(名乗りは不明)を突然説明もなく殺したことがあり、その呪いであると結論付けてしまった。
 李の死後、夜襲に関しては認められたが、結局重要な戦闘では負けっぱなしであった。

 ちなみに、アメリカ大リーグ:シカゴ・カブスのウィリアム・リグレー Jr.オーナーは「もし李倶麗昼道というものを知らなければ、カブスの本拠地はリグレー・フィールドという名前にはしなかっただろう」と語っている。
(民明書房刊「責任転嫁のすべて」より)
 

124 :神様仏様名無し様:2005/07/16(土) 23:54:28 ID:EQws3Kax
唐司馬般神(とうしばはんしん)
 正確には「飛癒阿保嶽唐司馬般神(ひいえるあおがくとうしばはんしん)」という。
唐の時代、阿保嶽(あおがく)出身の壷威(つぼい、>>97参照)は反心(はんしん)から仁智覇夢(にちはむ)地方へ渡り、その活躍から般若、あるいは神に例えられ、さらに彼が敵に飛びつく姿は見ているものを癒させたことからこの名がついた。
 現在、プロ野球・北海道日本ハムの坪井外野手は「PL、青学、東芝、阪神」と応援団からコールを受けているが、それに似たような名前の称号を持つ壷威の活躍には程遠い。もっとがんばって欲しい。
(民明書房刊「中国神話 マニアック編」より)

125 :神様仏様名無し様:2005/07/18(月) 20:39:25 ID:4Q3AJxd4
長くなったんで前後編で。

衛那津世二十一宮(えなつよ21きゅう)[前編]
 衛那津(えなつ)は乃矛讃(のむさん)の乱に加担し香阿府(かあぷ)に亡命し、
雄障(ゆうしょう)という、戦場にて使用する障害物を作る仕事を請け負う
稼業を始めた(>>109参照)。そして、楠界(なんかい)地方経由で襲撃してきた
金轍(きんてつ)を倒すべく作った最大の雄障が衛那津世二十一宮(えなつよ21きゅう)である。
 第一宮は刃汰(はた)、第5宮を腑蒔脊(ふじせ)にやられ、6宮を放棄し、9宮は葺居士(ふきいし)に落とされた。
とうとう11宮も誹螺乃(ひらの)の軍勢の前に放棄し、いよいよ香阿府は窮地に追い込まれた。
(続く)




126 :125:2005/07/19(火) 01:29:30 ID:Y/9T6zi6
衛那津世二十一宮(えなつよ21きゅう)[後編]
 金轍の裟裂(ささき)が衛那津のいる17宮の制圧に向かった。そこで途中の14宮を攻撃するも、そこを守る絹傘(きぬがさ)はすでにいなかった。
「絹傘は逃げた」と思い込んだ裟裂は17宮へ向かい、弓隊自慢の四射(よっしゃ)攻撃を放つものの、そこに絹傘軍が現れ、裟裂軍は総崩れになった。
 そして絹傘は衛那津を勇気付け、他の戦場へ向かった。一方、金轍の総指揮官・仁師元(にしもと)は守苦射頭(>>10参照)作戦を李志綿(いしわた)に命じた。
李志綿は腑蒔脊を別働隊として御逗濡馬(みずぬま)の守る19宮を狙い、自分は胡芭(こば)のいる21宮を攻撃することにした。
 それを察知した衛那津は当初の予定であった下虻(かあぶ)作戦から上巣闘(うえすと)作戦に切り替え、15宮の箕武羅(みむら)に19宮への援護を頼み、自らは21宮へ。
 そして腑蒔脊を箕武羅と御逗濡馬が挟み撃ちにし、腑蒔脊は全滅。衛那津は李志綿を21宮で迎え撃ち、一騎討ちでその首を討ち取った。
その後李志綿の首は鬼世陣(きよじん)に現れた悪党・獲餓輪(えがわ)のもとに送られたという。
 こうして金轍は破れ、仁師元、間煮(まにえる)、為蛇(なしだ)ら生き残ったものは撤退した。
 ちなみに、ファミスタで江夏豊の名前が一時「えなつよ」になっていたのは衛那津世二十一宮からきているのはいうまでもない。
(ミュンヒハウゼン出版刊「中世中国名勝負」より)

127 :125・126:2005/07/19(火) 01:32:24 ID:Y/9T6zi6
>>126
12行目訂正
腑蒔脊は全滅 → 腑蒔脊軍は全滅

128 :神様仏様名無し様:2005/08/01(月) 21:07:09 ID:E5YPtUPF
守津(もるつ)
御矢奮・緒長倭(おおさわ)は、余袴刃魔にて御位賢番(ごいけんばん)として活躍(>>103参照)する一方、守津(もるつ)という街の武術大会において、優勝したものの相手を務め、その力を示した。
 しかし、ある時期より、元は忠弐弛(ちゅうにち)の人である盤童(ばんどう)たちが賊軍を率いてこの地を暴れまわり始め、この武術大会も行われなくなった。
そこで緒長倭は、独楽坐琶(こまざわ)で捕らえた鍼基(はりもと)らとともに、守津救団(もるつきゅうだん)を結成し、毎年やってくる彼らを叩きのめすこととなった。
 そしてそれらは評判となり、一説には「殷をめぐる戦いよりも重大な戦い」と位置づけるものも現れ、結果として武術かを目指す子供も以前より増え、やがて周王朝誕生の原動力となった。
 だが、その所在地は鬼世陣(きよじん)説、仁智覇夢(にちはむ)説などがあるがいまだ不明。
(民明書房刊「我に喝を さもなくば死を」より)

129 :神様仏様名無し様:2005/08/02(火) 03:20:56 ID:Dbuw0cT3

命駆銅鑼馬(めいくどらま)

宋の時代、勢利具では争いが耐えず、
示威案都(じいあんと)、火亜府(かあふ)、銅鑼権洲(どらごんす)
の三つの勢力がひしめき合う混乱の渦にあった。
中でも、火亜府の勢いはすさまじく、二地を焼き尽くさんとす猛攻に、
多くの人々は「天下は火亜府のものだ」とまことしやかに噂を立てたと云う。
そこで、示威案都の大将、御簾田亜(みすたあ)は一計を案じ、
白馬を赤く塗り、示威案都の衆人の前にさらしてこう呼びかけたという。
「みな、何物もおそるるなかれ。余は命駆銅鑼馬を手に入れた」と。
命駆銅鑼馬とは、古き唐の伝承に登場する神に仕える赤馬である。
ひとたび銅鑼の音が鳴るや、命を燃やし一日千里を駆け、
国家に勝利をもたらすと言い伝えられていた名馬であった。
命駆銅鑼馬を得たと信じ込んだ示威案都軍は快進撃を続け、
激戦の末に、圧倒的窮地を切り抜けて勢利具を統一したのである。
なお、96年の日本プロ野球において巨人軍長嶋茂雄監督が
「メイクドラマ」と盛んに口にしていたのはこの「命駆銅鑼馬」が
元になっていると考えて相違ないだろう。

(民明書房刊「古代中国の名馬100選」より)

130 :神様仏様名無し様:2005/08/11(木) 03:44:30 ID:eWWISE5C
魔盛(まさかり)
呂津手(ろつて)地方に生息しているとされる、夢裸蝶(むらちょう)という蝶が集まってくることをさす。
これを見た人間は、いくら武人だといってもその姿に見とれて眠ってしまい、その間誰もが自らが裸になった夢を見るという。夢裸蝶という名前もこれに由来する。
また、夢裸蝶は寿命が長く、人間では50歳にあたる年齢になっても若い蝶に勝るとも劣らない運動能力を持つ。
(民明書房刊「こわーい動物百科」より)


 

131 :神様仏様名無し様:2005/08/21(日) 22:02:22 ID:QWHRJVsf
武威名印(ぶいないん)
 中国神話の話である。鬼世陣(きよじん)では歌羽神(かわかみ)という神が怒蛇阿衆(どじゃあす)という軍の戦法を取り入れ、武威名印(ぶいないん)という印を作った。
 この印を持つものはいかなる敵にも負けることはないといわれ、王、御簾侘(みすた)、飛炉御火(ひろおか)、鋪氏(ほし)、幡馬盤(ばん・ばばん)、握汰狼(あくたろう)といった優秀な人間が歌羽神に仕え、彼らの下で活躍した。
 しかし、この印の効力は9年間しかなく、その後武威名印を与えることを忘れた歌羽神は、裏切り者・與拿峯(よなみね)という神に敗れ死亡、このとき、3皇を見出した御簾侘のもと、人の世に移っていく。
 また、日本プロ野球で読売ジャイアンツがV9を達成した中で、V4の頃、梶原一騎氏はジャイアンツのメンバーの中に鋪氏や幡馬盤に似た名前のものがいないことに気付き、『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』を生み出したという。
 なお、歌羽神はやはり傲慢な神で、癒倶地(ゆぐち)という人物を精神崩壊するまで罵倒し続けたことがあるという。
(民明書房刊「まぼろしの神話100選」より)

132 :神様仏様名無し様:2005/09/03(土) 23:58:01 ID:wR9ZnUoY
犀怒守労(さいどすろう)
 かつての中国には、犀に似た動物が怒りながら突進していくさまから身を守る人がいた。それが発覚したのは最近のことであり、名前もなかったことから犀怒守労(さいどすろう)と名づけられた。
 このことを専門職としていた代表的な人物は薬留都(やくると)や志籠(しかご)の南で活躍した貴通(たかつ)などがいる。
 また、専門ではないが、香亞府(かあぷ)の呂麻乃(ろまの)もこの仕事をすることがあった。ちなみに彼は故郷が女盗賊・伽裟凛(きゃさりん)の襲撃を受け壊滅的打撃を受けたことで帰ったといわれている。
(民明書房刊「古代ハローワーク」より)

133 :132:2005/09/05(月) 14:21:21 ID:pTCQlEpg
…って、ああぁ間違えた!下から2行目は伽裟凛(きゃさりん)じゃないよな。失礼。訂正。
正しくは華酉稲(かとりいな)となります。

134 :神様仏様名無し様:2005/09/07(水) 17:20:34 ID:Bwhq6F6u
紺馬頭行進曲(コンバットマーチ)、奪酒慶王(ダッシュケイオウ)

 春秋戦国時代、早の国の音楽家、紺馬頭は国王から軍歌の作成を依頼された。
しかし、中々歌詞が思い浮かばず、遅遅として作曲が進まなかった。ある日、剣の
稽古を見学していた紺馬頭は剣を繰り出す剣士の叫び声からインスピレーションを
得、発想を逆転させて歌詞がなく、曲の合間に叫び声だけを入れた軍歌を作曲した。
主に行進に使われるこの曲は後の学者の研究により世界初の行進曲と認定され、
紺馬頭行進曲(コンバットマーチ)と命名された。
 一方、早のライバル国、慶では紺馬頭の曲を上回る軍歌を作ろうと国王自ら作曲し、
わずか一年後に完成させた。この軍歌も型破りで、「打倒早国、勝利勝利慶国」のフレーズを
繰り返すだけの曲だったが、軍隊の士気高揚に役立った。宴の席でこの曲が流れると、
国王の酒が進み人の酒を奪ってまで飲んだことから「奪酒慶王(ダッシュケイオウ)」と後に
命名された。
この曲を早稲田大学、慶應義塾大学の応援団が野球応援曲として用い、全国に広まったのは
あまりにも有名である。

民明書房刊「春秋戦国六国史」より抜粋

135 :神様仏様名無し様:2005/09/07(水) 21:07:24 ID:oUO3bN5u
支弓式(しきゅうしき)
中国で、戦いを始める前に本拠となる城の保守(ほしゅ、>>15参照)に、支援者が武器を授ける儀式のこと。
春秋時代、早の国において、前王の緒憶馬(おおくま)が慶(前王は葺座琶(ふくざわ))と戦うときに保守に弓を授けたのが始まりとされ、それにちなんで名がついた。
一時、迎納(げいのう)という内部対立の激しい国から使者を迎えて行うことが各地で流行し、一般兵から顰蹙を買こともあった。
一方で、歴史ある国では、その国の引退した武将が剣や矛を与えることもあった。特に華亜府(かあぷ)地方では、1年通じて行い、その年末には優れた現役の将軍を起用したこともある。
一説によると、これが野球の始球式の原型になったとされる。
(民明書房刊「古代中国の儀式1000」より)

136 :神様仏様名無し様:2005/09/08(木) 22:24:14 ID:56wGXp1V
六大牙軍(ろくだいがぐん)

 春秋戦国時代、秦の台頭に対抗するために早、慶、立、明、法、東の六国は同盟を結んだ。
これらの国は秦に負けない強力な軍隊を作るべく、毎年の春と秋に迅倶宇(じんぐう)の地で
大規模な合同軍事訓練を行なうことにした。内容は今のリーグ戦に近く、二勝先取で勝ち点1を
与えるルールになっていた。優勝国には多額の賞金と栄誉が与えられたという。このようにして
強力な軍隊を作り上げ、連合軍は後に六大牙軍と呼ばれた。
 六国の特徴は個性的であった。早の国は稲作が盛んであり、その最大のライバル慶国は富豪が
多く住んでいた。立国は貴李素斗教という宗教団体が母体であり、明国は任侠の国として知られ、
法国は様々な武闘家がおり、東国には多くの学者が集い研究を行なっていた。
 軍事訓練は一般公開され、多くの観衆を集めた。特に、合同訓練最後の日程に行なわれる早慶戦が
大人気であり、中でも優勝を賭けた伝説の五連戦は中国人なら誰でも知っている故事である。
なお、春秋戦国時代の春秋とはこの軍事訓練の日程から来ている。

民明書房刊「春秋戦国六国史」より抜粋

137 :神様仏様名無し様:2005/09/16(金) 01:16:30 ID:3SJM2/SP
嶽師(たけし)軍団
 中国の南朝の頃、どの国であったかは不明だが、謎の嶽師(たけし)という無法者が軍隊を作り、地方を荒らし回っていたという。
それに対抗するため、畝李虞(せりぐ)一の小国・反心(はんしん)は戦いを挑んだが、敗れてしまい、羅月(らつき)地域を破壊されてしまった。
 翌年には鍼虞(はりぐ)一の小国・呂津手(ろつて)に侵入し、壇官(だんかん)、辣虚(らつきょ)の蜘蛛作戦などでその軍の矢義狭和(やぎさわ)指揮官、藍光(あいこう)、比良濡麻(ひらぬま)の3人を捕らえた。そして嶽師は捕虜らに彼ら同士での接吻を命じた。
 そのとき、矢義狭和が命からがら脱出したため、藍光と比良濡麻が接吻するという屈辱を味わったのは言うまでもない。
 この話にちなんで、日本のとあるお笑いタレントがプロ野球の最下位チームに勝負を挑み、見事勝利したことはあまりにも有名である。
(民明書房刊「無法者たちの挽歌」より)

138 :神様仏様名無し様:2005/10/02(日) 01:45:34 ID:lzLCM1Wm
水壬(みなみ)

反心(はんしん)国の地名。この地の住人は、反心国が戦争に勝つと暴徒と化し、商店を破壊したり、国歌を真夜中に集団で合唱する、戦争反対派などを怒屯彫(どとんぼり、>>111参照)の河に投げ落とす、他といった事件が後を絶たなかった。
また、この地の子孫が日本に渡り、その子孫が阪神地区の住民になったことはあまりに有名なことである。ちなみに道頓堀ダイブは水壬での暴徒たちの殺人行為が変化して日本に伝わったものだとされるのは言うまでもない。
(民明書房刊「反心国と邑守府安道〜蕪の戦い」より)

139 :神様仏様名無し様:2005/10/04(火) 22:46:03 ID:ziA8zlLj
反心雄障(はんしんゆうしょう)
雄障(ゆうしょう)というものは、戦略のために作る障害物のことで、衛那津世二十一宮(えなつよ21きゅう、>>125-126参照)などが有名である。
反心(はんしん)では、与死堕(よしだ)が指揮を執った頃から麻湯箕(まゆみ)、馬阿巣(ばあす)らを用いて恵毘巣場市(えびすばし)に作ることが多かったが、その度に市の住民の反発を買い、怒屯彫(どとんぼり、>>111参照)へ抗議の飛び降り自殺が相次いだ。
また、鈍伝(どんでん)が初里編巣(ういりあむす) 、譜慈果環(ふじかわ)、窪侘(くぼた)を用いて作った寺衛餌付桂(じえいえふけい、寺を守るために桂の木に罠を付けたもので、食糧を吊るしている事からその名がついた)という雄障においては、
匂いがものすごく、景観を損ねたことで、住民は激怒し、猥褻なことを働いたり、馬車が襲われる事態に発展した。
 水壬(みなみ、>>138参照)と並び、怒屯彫の地名として、そして、道頓堀の橋の名前の由来として名高い。
(民明書房刊「大生鈍伝」より)


140 :神様仏様名無し様:2005/10/17(月) 23:14:13 ID:tObyvmyy
華馬雲牙(はなまうんが)
春秋時代、台栄(だいえい)が翁拿亜(おうなあ、>>63参照)の禅譲により滅び、蘇府都蛮区(そふとばんく)が建国された。
それにあたり、蘇府都蛮区は紋鳥織(もんとりおる)から大股を開いて構え、素手で敵の首を飛ばす「超五鬼拳(ちょうごきけん)」という拳法を使って200人以上を葬乱(ほうむらん、>>37参照)した武将・芭蹄(ばてい)を招いた。
これに危機を抱いた厨麗汰(ずれいた)は修行に励み、華馬雲牙(はなまうんが)という必殺剣を編み出した。
この技は敵を「チョー!チョー!」と叫びながらX字に切り裂き、さらに胸を拳で突いて止めを刺す技であった。
この技で厨麗汰は1年のうちに43人を葬乱)した。
なお、この技の動作が、福岡ソフトバンクのフリオ・ズレータ選手の「パナマウンガー!」の元ネタになったのはあまりに有名な話である。もちろん、「チョップ!」は「チョー!」の変形である。
(民明書房刊「平和な時代にも生きる必殺技」より)

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